上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 先日、チューリヒ歌劇場にて「トゥーランドット」を鑑賞した。チューリヒ旅行の詳細は、別途旅行記に譲るとして、今日はたっぷり堪能したこの作品について備忘録がわりに所感を書き残しておこうと思う。

 今回の旅行に際してオペラを見る予定など最初はなかったのだけれど、日中に歌劇場を訪れるとその日の演目が「トゥーランドット」であることがわかり、大規模な合唱団と大がかりな舞台装置の必要性から生で見る機会はなかなかない作品で(機会があったとしても東京では他の有名作品以上に割高になる。荒川静香がこの曲でフリーを滑って金メダルを取ったトリノ五輪以降はその傾向にますます拍車がかかっているのではないか。)、前から一度生で見てみたいと思っていたので当日券を取った次第。オペラを見に行く予定なんてなかったので、よりによってブルージーンズにスニーカーという格好だったのだけれど、パリでオペラに行くとカジュアルな服装の人も結構たくさんいるので別に平気だろうと高をくくって夜の会場に出直した。ところが、さすがドイツ語圏の劇場の中でも近年特に名を上げているチューリヒ歌劇場、中は盛装の人でいっぱい。上着はおろか、ネクタイを付けていない人すらほとんどいないし、女性はみんな着飾っている。ジーンズの人なんて皆無。当日券で、前から2列目とはいえ端の方の席だったので、それだけでも救い。苦し紛れに着ていたトレンチコートを膝にかけてジーンズを隠して鑑賞。苦笑 ちなみに、ドイツ語で字幕を出されてもわからないので弱ったな…と思い、あらすじ等の確認はしっかりしていったものの、字幕は英・独の2か国語で提供された。パリのオペラ座がフランス語字幕しか表示しないとは対照的(今回のボクとは逆に、ドイツ語圏からパリにオペラを見に来る人は困るだろう。)。

 開演して、逃避行中のティムールとリュウが登場すると、まずはその格好にびっくり。思いきりモダンな装いに、リュウにいたってはグッチのアタッシュケースまで持っていて、思わず笑ってしまった。最初は単に小ネタを仕込んだだけかと思っていたのだけれど、第二幕のカラフの謎解きのシーンでは、カラフがラップトップを取り出してトゥーランドットから出される問題に挑むという演出。この演出にも会場では大いに笑いが起こっていたのだけれど、ここで、そうか、トゥーランドットって近代化の物語なのか、ということに気付かされた。条件に見合わない男を次から次へと処刑していくという野蛮な国を訪れるカラフは、心に愛を持つ「まともな」近代世界の人間で、近代的な生き方を前近代の象徴であるトゥーランドットに教える役割を担うのではないかと。前近代のアジアの一部の国で、王族の女性が神性を帯びるとされることがあったいう史実も、皇帝を差し置いてトゥーランドットが男たちの処刑を決定していくことの前近代的な正統性を裏付けているようにも思え、プッチーニはアジアの事情をきちんと勉強した人なのかもしれないとも思わされる(この点、皇帝がお飾りだとか弱腰だとか姫に振り回されっぱなしだとかいうお門違いの指摘もまま見受けられるのが残念な限り。)。極め付けに、カラフがトゥーランドットに与える問いが自分の名前を言い当てろというものであるのも、一人の人間・個人に価値を認めるというモダニスムの象徴になっているように思われる。

 ここまで考えながら見て来ると、最後の場面の演出はもう予想がついたのだけど、第三幕、明け方を迎えて民衆たちが舞台上に戻って来る時、彼らはそれまでの陰鬱な色の布をまとっただけの格好から、ジーンズ、ワンピース、スーツといったモダンな服装にすっかり着替えているという演出で圧巻。予想されていたとはいえ、朝を迎えることにより、この国が近代のあけぼのを迎えたことをこれほどうまく象徴することのできる演出はないのではないかと思わされ、震えるほど感動した。我々が言うところの普段着の人が大量に並んでいるだけなので、ビジュアル的に何か鮮烈な印象を与えられるわけではないのだけれど、この国がこれほど変わったのだという印象は強烈で感動に値するし、なによりも背後にこうした思想が流れていることをこれほど効果的に感じさせられるということ自体が脱帽ものである。この時点でトゥーランドットはまだ中国風の衣装を着ていたのだけれど、彼女が「彼の名は『愛』」と宣言すると、カラフと一夜を共にして(この演出もまさに近代の作品のベッドシーンを思わせる露骨な愛撫)、聖女としてではなく一人の女性として近代を活きる悦びを知ったトゥーランドットの服装も深紅のイブニングドレスに変わるという派手な演出。彼女とカラフはそのまま舞台中央にセットされたテーブルに誘われ、シャンパンで乾杯し、モダンなデートを始め、幕。粋なのが、ここでシェフ、ソムリエ、給仕の役を務めるのが、ピン・ポン・パン役と同じ歌手であるというひとひねり。

 ちなみにこのシーン、バックには現代の上海の夜景の写真が映し出されるのだけど、そこが北京ではなくて上海の風景だということにも大いに意味があるのではないか。もちろん、この公演が上海の楽団との共同制作であることによる部分も大きいとは思うのだけど、上海といえば、その時代に列強の租界が展開した中国の近代化の入口となった街。この明け方のシーンでその街を印象付ける絵を大きく映し出すことに、何ら意図がないということはないだろう。これまで、言ってしまえばサイード的なオリエンタリスムの視野を持つ作品としか認識して来なかったけれど、こうして見ると現代において議論されるアジア又は第三世界の近代化像への類推にも十分耐え得る構造になっている作品なのだということをよく理解できた。通しで一度見せるだけでこうした知的な構造を観客に理解させる演出になんといっても拍手。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://405a10474.blog113.fc2.com/tb.php/512-decad812
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。