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2011.09.06 ほととぎす
といえば、あれですね、信長・秀吉・家康。もちろん本人たちが読んだ句ではないそうですが、3人それぞれの特徴を端的に言い当てている句として、子どもの時から親しんだ人もたくさんいるのではないでしょうか。今日、注目したいのはそれらの最初の5字。皆さんはどういう風に習いましたか? ボクは「鳴かぬなら」と習いました。世代によっては「鳴かざれば」と習う人たちもいるのだとか。

ここで「なんで? おかしくない?」と思ったあなたは、高校でちゃんと古典文法を勉強した方ですね。「鳴かざれば」の「ざれば」は、「打消の助動詞『ず』の已然形+接続助詞『ば』」つまり「已然形+ば」なので、順接、つまり、「~なので」とか「~ところ」と訳すというのが定石ですね。ところが「鳴かぬなら」と習った方の多くは、その意味するところを、Siun coucou ne chante pas、つまりIf a cuckoo doesn't sing, と認識してはいないでしょうか。つまり「もしも~なら」という仮定、古典文法でいうところの「未然形+ば」を連想させるようなニュアンスで習ってはいないでしょうか。でも、もし「鳴かざれば」が原文なのだとすると、その意味は「鳴かないから」となるはずで、「Si un coucou ne chante pas」「If a cuckoo doesn't sing」ではないはずなのです。

ここまで考えると、「鳴かぬなら」というのはいかにも後世に作られた現代語調の言い回しなので、「鳴かざれば」が正確なのだろうという推測が働くわけですが、ここで次の7字にも注目したいと思います。たとえば秀吉。「鳴かせてみせよう」というフレーズが有名ですが、どうやら「鳴かざれば」で習った人たちも同じように「鳴かせてみせよう」でならっているようです。何が言いたいかというと、めちゃくちゃ現代語じゃんということ。家康の「鳴くまで待とう」にしても「鳴くまで待たむ」ではないのか、と。

これらの句の成立について詳しいことは知りませんが、意外とすごく最近できたもので、文法のルールを蹂躙するような乱暴な方法で適当に作られたものなのかもしれないなと思いました。それにしたって、こんなに整合性が取れていないのってひどいと思いませんか? もっとも、江戸時代の文法なんてボクは知らないし、おそらく普通の人が古典文法として習う文法は平安朝において成立した文法だと思うので、もしかしたら「鳴かぬなら」とか「鳴くまで待とう(あるいは「待たう」?)とか江戸時代には言っていたのかもしれないけど。
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