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 別に他になんとか編があるわけではないのですが、「小さな」喜びである以上たくさんあって然るべきであろうという希望的観測に基づき、意味もなく「銀行編」と限定をかけてみました。

 フランスでは銀行口座を2つ持っていて、そのうち1つの口座のカードがしばらく前から使えない状態になっていました。そこらへんの支店に行ったら、自分の口座の支店と連絡を取ってくれというようなことを言われ、その支店は来仏当初に滞在していた遠く離れた南仏にあるので実際に足を運ぶわけにもいかず、かといってこの手のこゴタゴタを電話で片付けようとするとどうせ厄介なことになるんだよなーとか思って、じゃぁもう1つの方で済ましていればいいやーと放っておいたわけです。

 とはいえ、銀行としての使い勝手という観点からは、カードが使えなくなってしまった方の口座に分があるので、やっぱりいつまでも放っておくわけにはいかないと思い、電話をかけることに。電話をかけようにも、支店にかけたいにもかかわらず、自動案内の代表番号しかわからないというお約束の展開。最初のガイダンスに始まり、いくつかの自動音声の質問にプッシュホンで応えていき、ある程度絞られた時点でやっとオペレーターにつながる。かくかくしかじかでと説明すると、名前は?と言われ、名前を答える。どうやらこれが個人の確認(日本だと、登録してある住所やら電話番号やら生年月日やらを聞かれるプロセス。)の役割を果たしているらしい。まぁ、たしかに「個人番号」として親展の郵便物で送られてきた番号はプッシュホンに入力したけどさ、普通、最後に口頭で確認するものの方がザ・個人情報の様相を呈するはずなのではなくて? 名前を確認してもらうと、「それは支店と直接話さないとダメね。」と。そうだよ、それがわかっているから支店の番号として載っていたこの番号にかけたんだよ、と。「今からつないであげる。」と言われ、わずか1分で支店に接続。おぉ、順調。「かくかくしかじかで。」と再度説明すると、「オッケー、かくかくしかじかでサービスを止めていたみたいだから、すぐに再開させます。最大48時間かかるけど、その後は普通に使えるよ。」とのこと。

 というわけで、わずか1回の電話でミッション・コンプリート。購入した洗濯機や冷蔵庫を搬入するだけでも何回も電話がかかってきて何回も日付が変わって…というプロセスを経たわけで、もうそんなのに慣れっこになってしまい、どうせ今回もそんななんだろう、時間かかるならもう1枚カード持っていて良かったーとか思っていたのに、いざ電話をかけてみるとあまりにスムーズに物事が運んで、衝撃を受けました。なかなか気分が良い。

 とはいえ、「最大48時間」はあくまでも電話での向こうの言い分。48時間後にお金をおろそうとしてもやはりおろせないということが起こる可能性もあるとは言えない。油断は禁物。On verra.
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2011.10.25 日記論
 最近、日記を付けるのがちょっと前より楽しくなってきました。「日記を付けるのが楽しい」と聞くと、ポジティヴに捉えればよい可能性と、ネガティヴに捉えなければいけない可能性の両方がまず思い浮かぶわけです。ポジティヴに捉えると、日記に再現するだけでそれほど楽しい気分になるような日常生活を送っているなんて素晴らしい!ということになるし、ネガティヴに捉えると、日記を書くぐらいしか楽しいことがない生活なんてリア充からはかけ離れていますね…ということになる。まぁ、ボクの場合、ちょっと前から新しいノートに付け始めたからという単純な理由なんですけど。日記は全部モレスキンを使っていますが、今回はせっかくフランスにいるしということで、スヌーピー、ではなくて、星の王子様エディションにしてみました。過去2冊はオーソドックスな黒無地の表紙だったので、ここで統一性を崩すことにちょっと抵抗はあったものの、まぁ同じモレスキンで揃えるという最低ラインはクリアしているからいいでしょう、ということで。

 ボクは、意外と文房具や手帳に弱く、その手の雑誌を見つければすぐに手に取り、その手のブログを見つけるとすぐに通い、その手のお店を見つけると迷わず入ってしまうのですが、ノートの使い方についてよく見かけるアドバイスに、既存の書き方にとらわれずに紙面を自由に使ってみようという類のものがあります。具体的に言うと、写真や切り抜きをペタペタとランダムに貼り付けてみたり、いろんな大きさ・太さ・色の字を混ぜ合わせてみたり、字を書く方向自体を斜めにしてみたり。そうするだけで書くという行為がとても自由になることができて、よりクリエイティヴで楽しいノートができあがります、という感じ。たしかに、そうやってできあがったとされるノートの見本は、無造作で統一性がないながらも、それがゆえのある種のかっこよさを感じさせるように仕上がっていて、いいなぁーと思わされることもしばしば。でも、なかなかできないんですね、これが。2冊も、黒ペンで横にびっちり書き続けてしまったので、そのスタイルをここでやめてしまうというのもどうも(思えば、大学時代のノートの書き方はほぼ同じ。)。あと、より現実的な利便性の問題として、写真や切り抜きがいっぱい貼ってあるノートって、左側のページ(つまり、ページの裏側やその後ろに連なるページたちにいろんなものが貼ってあってでこぼこしているページ)にモノが書きにくくなるという欠点があるのですよね。そんなこんなで、結局これまでどおり書き続けています。一つ思ったのは、日本語で書いているのだから、縦書きにすれば良かったかな、と。世の中、どうして縦書きのブログってないんだろう。技術的にできないの?

 今回の新しいノートで日記は3冊目に突入したわけですが、1冊目は1年11か月かけて埋めたのに対し、2冊目は1年7か月で書き終わりました。白無地のノートを使っているので、字の大きさや行間等にもばらつきがあり、一概に比べられないのだけど、1冊目の期間は東京で働いていた期間、2冊目は日本での留学準備を含めて研修に励んでいた期間とほぼ合致するので、忙しいと簡単な記載で済ませて1日に書く量が短くなりがちで、皆さんに盛大に送別していただいたり、異国の地で楽しい生活を送ったりしていると必然的に書くことも多くなる、ということなのですかね。日記の内容自体もさることながら、こうやって書き方にも違いが現れるというのは、後から見ても興味深い。

 ちなみに、日記は日本語で書いているのか、という問いには迷わず「はい」と答えます。書くのに手間がかかるからというのは実は理由ではなくて、逆に読み返すのが不便だからというのがその理由。やはり26年間も日本語を読み続けて育っていると、どんなにヨーロッパで生活していても、アルファベットって目になじまないのですよね。なじまないというのは、大量のアルファベットを見せられても、その中から自分に必要な情報にパッとスポットライトを当てられない、要は飛ばし読みができないという意味です。日本語ならそれができるもんね。日記って、何気ない時にふと読み返して、いろいろ思い出せるというのが小さな醍醐味だったりするので、これは大事。

 あと、重大な論点として、自分の日記をいつ焼き捨てるかという論点がありますが、これは難しい問題なので、今日は棚上げ。
 またしょうもないことばかり考えてと思われるかもしれませんが、送別会の対義語って何だろう。歓迎会に決まっているだろうという声がそこかしこから聞こえてきそうだけど、対義語の概念を1対1対応するものだと仮定すると、歓迎会の対義語としては歓送会という独立した語があるので、歓迎会ではないだろうと。つまり送別会の対義語は存在しないのではないかというのがとりあえずの結論です。

 歓びなくして新たな人を迎え入れることなど日本語文化圏にはないのだということでしょうか。それはそれで素晴らしいと思うけど。でも、そう考えると「歓送会」ってちょっとしっくりこないわけで。辞書をひいてみても、「歓送」とは「その人の出発を喜び、励まして送ること」とあるので、別れを惜しむという観念はそもそも想定されていないようですね。「送別」も「別れて行く人を送ること」とあって、単に歓ぶ趣旨が含まれていないというだけで別れを惜しむというニュアンスは厳密にはいずれにせよ含まれていませんが、「歓送」って、要するに「歓送迎会」という言葉を作るために生まれた言葉なのでは?と考えました。辞書にも「『歓迎』に対して造られた語」とあるので、ここからも極めて最近の造語である感じがプンプンするし。

 実際、入学や卒業のように異動の時期が定まっていない社会人になってからというもの、送別会と歓迎会を別々に行うなんていうことはほとんどなくて、「歓送迎会」という言葉はすごく便利。ただ、「送迎」「送り迎え」という言葉が既に存在するから「送」「迎」という順に文字を並べて「歓送迎会」という言葉が生まれたと思われますが、実際の歓送迎会は、これから去る人と入って来た人が一瞬だけ居場所を同じくする機会なのだから、送るよりも前に迎える作業が行われるはずで、それなら「歓迎送会」の方がふさわしくないかと。もっとも、去りゆく人にこそより大きな敬意を払うべきなのだという道徳的な観念から両者を比較し、第一に「送」の字を持ってきたのであるという可能性も考えられないことはなく、その視点はもっともだとも思うのですが。

 他方、「送迎」にしろ「送り迎え」にしろ、ある人間が目的地付近に到着し、その人を迎えに行って、同じ人をまた送りに行くという場合も考えられるわけで(ホテルの「送迎バス」とか。)、その場合は「迎送」だろう、と。「送迎」というのは、出勤や登校・登園の際に家や宿から目的地まで見送り、後で同じ人間を迎えに行くという状況にこそふさわしい熟語だろう、と。こういうと、いやいや、ホテルの送迎バスも前のお客さんを駅や空港まで送り、すぐに次のお客さんをピックアップするのだから「送迎」で正しいのだいう御意見が出て来そうですが、それは「迎える」「送る」という動作に係る主要な視点を動作主に置いているからこそ出て来る考えだと思うのです。先の道徳的観点云々ではないけれど、誠意を持って迎えたり送ったりするのであれば、その主要な視点は動作の受け手に置かれるべきではないか。そう考えると「迎送」(PCで一発変換できるようになった。笑)と言う方が適切であるという場面はあるんじゃないかなぁー。
 あんなものブログに貼り付けたので、案の定無限ループから脱することはできなくなり、ならばフランス語の勉強に活かそうということで(笑)、作ってみました、仏語版・津軽海峡冬景色。一応、ただ訳すだけではなく、音節を数えるなどして「歌える訳」を目指したつもりです。だから、単語の選び方が強引だったり、本来のイントネーションと音程が合っていなかったりするところもありますが、御容赦を。あと韻も踏めたらいいなと思ったのだけど、それはちょっと無理でした(でも1番はR音による脚韻、頑張った!)。訳者としては、2番冒頭の「竜飛岬」の「竜飛」と仏語の「Tappi」のタイミングが完全に重なったところがお気に入りです。

 では、Chantez bien!(「歌える訳を目指す」というコンセプトに従い、日本語詞と訳詞の同じタイミングの部分にスラッシュを打って見ました。御唱和ください。)

Dès qu’on a descendu / du train de nuit en prove-/nance de la gare d’Uéno
Celle d’Ao/-mori est / toute couverte de neige
La foule était toute très / silencieuse rentrant chez / eux se trouvant tout au nord
Ils n’enten/-daient que le / grondement de la mer
Moi aussi, à moi seule,/ à bord du/ transbordeur
Je pleurais et pleurais / regardant une mouette / qui devrait toute geler
Euh,/ l’hiver arrive au détroit/de Tsugaru

Voilà le cap de / Tappi, c’est l’extré/-mité du nord du pays
Quelqu’un que/ je ne connaisse pas / l’a désigné du doigt
J’ai gratté déséspé/-rément à la vitre / embuée des soupirs
Mais je ne l’ai / aperçu /qu’indistinctement
Au revoir, mon chéri,/ moi, je rentre / en te laissant
J’ai le coeur très serré / à cause du souffle de vents / m’appelant à pleurer
Euh,/ l’hiver arrive au détroit / de Tsugaru

Au revoir, mon chéri,/ moi, je rentre / en te laissant
J’ai le coeur très serré / à cause du souffle de vents / m’appelant à pleurer
Euh,/ l'hiver arrive au détroit / de Tsugaru

上野発の/夜行列車/下りた時から
青森/駅は/雪の中
北へ帰る/人の群れは/誰も無口で
海鳴り/だけを/聴いている
私もひとり/連絡/船に乗り
凍えそうな/かもめ見つめ/泣いていました
あぁ/津軽海峡/冬景色

ごらんあれが/竜飛岬/北のはずれと
見知らぬ/人が/指をさす
息で曇る/窓のガラス/吹いてみたけど
はるかに/かすみ/見えるだけ
さよならあなた/私は/帰ります
風の音が/胸をゆする/泣けとばかりに
あぁ/津軽海峡/冬景色

さよならあなた/私は/帰ります
風の音が/胸をゆする/泣けとばかりに
あぁ/津軽海峡/冬景色


ボクの十八番はどちらかというと「天城越え」なのですが、仏訳するとなるとたぶんあっちの方が難しい。あの連続する体言止めから醸し出される妖艶さをフランス語でどう表現するか。笑 そして、一般に日本語の方がフランス語よりもずっとずっと人称代名詞を豊富に持っているけど(一人称だけで、わたし・わたくし・ぼく・おれ・わし…)、同じ「あなた」でも、津軽海峡冬景色はtu、天城越えはvousで訳したいところ。奥が深いですねぇ。Me permettez-vous de vous tuer?って、日本語の歌詞の雰囲気に割と近いと思うんだけど、どうでしょう(Puis-je vous tuer?だと音節が少なすぎる。)?
貼り付けておきましょうかね。こんなもの見たら、ますますループから脱することが難しくなりそうだけど。



「雪の中」「連絡船に乗り」のところのリズムと、「泣いていました」のところの音程を勘違いしている人、意外と多いと思うのですが、皆さんは大丈夫ですか?




 久しぶりに新しい曲の譜読みを始めました。各方面から、フランスでレッスンを受けているにもかかわらずフランスものにはトライしないのかとの指摘を受け続けていたので、慣れないフランスものにチャレンジし始めました(慣れないといっても、1年生と4年生の時に1回ずつ、ドビュッシーとフォーレを一応弾いているんだけどね!)。で、だいぶ中途半端な感じで今日は終わらせてしまったので、果たして「譜読み」は終わったのかなぁとか考えたわけです。そこで行き着いたのが「譜読み」って何という形而上学的な問いでした。笑

 「やっと譜読みが終わった!」「まだ譜読みに毛が生えたぐらいしか弾けないから…」「譜読み遅いんだよねー」…いずれもピアノを弾く人間同士の会話ではそれなりの頻度で耳にするフレーズですが、何をもって譜読みが終わったとするかどうかって結構人によって違うよなぁと。昔から、「違う」ということは意識していたのだけど、じゃぁどこで一番の違いが出るのかなと考えてみると、要は覚えることが必要かどうかということなのではないかと。

 指が細かく動く一定の長さのパッセージなどは、楽譜を見ればどの音を鳴らすべきかがわかるという状態にあるだけでは、スムーズに弾けません。なぜなら、楽譜に目をやっている間に曲がどんどん進んでしまうから。つまり、その手のパッセージをスムーズに弾けるようになるためには、その時点で音を覚えていることが必要なわけです。ここで「譜読み」の定義が人によって大きく割れるのではないかと。楽譜を見てパッと音がわかるなら「譜読み」できたと言っていいだろうという人と、スムーズに弾けないのならそんなものはまだ「譜読み」が終わったとは言えないという人と。

 「譜読みが終わった時点でだいたい暗譜できている」なんていう強がりをときどき豪語することがあるボクですが、実際には自分にすごく甘いので、楽譜を見てパッと音がわかるなら「譜読み」は終わったものと自分の中では判断しています。笑(だからボクが「まだ譜読みもできていない」と言っている時は、本当に弾けていないのです。おわかりですか、みなさん。) だから、よくよく考えると、本当はボクが「譜読みが終わった」と思った時点では暗譜なんて終わっていなくて、暗譜が終わるのはもう少し先の段階であるわけですね。これは自分にとっても大きな発見…。

 それはそうと、昨日から「津軽海峡冬景色」が頭の中で無限ループを繰り返しています。これはそろそろカラオケに行かないと発狂するよということでしょうか。

 

 

 
 少し前になりますが、またまたパリはバスティーユのオペラ座で「タンホイザー」を見て来ました(もちろんドレスデン版ではなきゅパリ版)。後から聞いたところによると、パリのオペラ座の「タンホイザー」はその演出にとても人気があってもはや定番の一つと数えてもいいのではという話らしいのだけど、その事前情報が頭にない状態で見に行きました。もちろん、中世の吟遊詩人の話だと思って見始めるわけですが、第1幕のエキセントリックな演出に驚きつつ筋が進んでいくと、20世紀の絵描きの話に置き換えられているらしいということがわかって、まず感激。この舞台設定と、ややエキセントリックな第1幕が、それぞれ別な意味で「パリ」らしいじゃないですか。この演出の人気というのは、こういうややツーリスティックなところに根を張った人気なのかなと思いました。良い意味で。

 第2幕の吟遊詩人たちの競技会の場面は、画家たちのコンクールの場面に置き換えられていて、冒頭はそのコンクールの開催記念レセプションのカクテルパーティーということで、超華やか。客席最後尾から行列を作って入って来て、めかしこんでシャンパングラスを片手に声を張り上げる合唱団というだけで、かなり圧倒されるもの。圧倒されるというか、そのきらびやかな世界に否応なく引き込まれるといった方が正確か。ソリストたちも、客席に降りて来るという演出がたくさん取り入れられていて、あのニナ・ステムの美声を目の前2~3mのところで聴いてしまいました(前から3列目で見ていた。)。まさに陶酔もの、失神寸前。

 第3幕は、荘厳さも出しつつ、ちょっとアンニュイな感じを全体に漂わせていて、まるでフランス映画を見ているみたいな感じ。第2幕があまりに華やかだったので、ただ見ているだけではクライマックスを第2幕に持っていかれたか?という印象を受けてしまいかねないけれど、巡礼者たちが帰って来るところは赦しの印として合唱団全員に大きな十字架の枠を持たせるなど、見た目にも荘厳な感じを醸し出せるような工夫はそこかしこに見られ、良かったです。そして、やはり第3幕はしっとり、でも緊迫感を持って歌いあげられるアリアたちが聴きどころなので、このアンニュイな演出はそれをうまく引き立てているように思われました。エンディングはちょっと衝撃。絵的にではなくて、ストーリー的に。全然違うじゃん!と。

 演出を変えたことによる無理は多少生じているとはいえ(なんで20世紀に淫行の罪のためにローマに赦しを乞いに行かなければいけないのか、とか)、オペラそのものをぶち壊すことなく、スマートにアレンジされた演出で、これがパリの定番の地位を確立していることは十分納得できました。冷淡と言われるパリの観客たちも、ブラボーの嵐、カーテンコールの時には全員総立ち。こんなのパリで初めて見た…。

 前回の「サロメ」ではオーケストラの質についてコメントしましたし、今回もオーケストラはとても素晴らしかったのだけど、演目の性質上、やはり歌に目がいくわけで、特に女声陣、素晴らしかったです。タンホイザー役は、パリでは今回が初舞台ということで、女声陣と一緒に歌うとちょっと引けを取る部分があるかなぁという感じが正直してしまったけれど、それでもこれから自分のスタイルを確立してまだまだ伸びるだろうなという可能性を感じさせてもらいました。エリーザベト役もそれなりに若手だったのだけど、コンセルヴァトワールを首席で卒業したという経歴が示す実力はやはり本物で、第1幕のアリアはまさに圧巻。そして、やはりニナ・ステム。ほんの10秒ぐらい目の前で歌ってくれたというのもあるけれど、近い距離で聴く時に限らず、あの存在感はすごい。あの声の張りと表情の豊かさ。すごい人だとは思っていたけど、今回ですっかりファンになりました。

 つまり、何が言いたいかというと、すごく良かった、オススメですということです。オペラをテレビの画面で見るのってよくわかんないなって思っていたんだけど、これは演出がとても面白いので、DVDがあるなら欲しいかもとか思ってしまうほどでした。
2011.10.06 日本語の小姑
 外務省のFBとツイッターのアカウントから、数日前にこんな日本語が流れました。
 

 9月13日に能登半島沖で発見された脱北者9名について、政府としては、人道上の見地から適切に対応するとの方針の下、韓国行きを希望するという本人たちの意向を踏まえ、韓国側との調整を行い、本4日(火曜日)午前、韓国に向けて出国しました。


 別に、ここで日本の対北朝鮮政策を論じましょうなんて高尚なことを考えているわけではなく、ちょっと日本語の在り方について書いてみようと思ったわけです。いや、日本語の在り方なんていう一般的な次元の高い話をしたいわけではなく、単純にこの日本語なんかおかしくね?と。こいつは普段からこういう目でもって日本語を読んでいるのかと思われるのも嫌なのですが、そして、本なんかを読む時も得てしてこんなことを考えながら読んでしまう性質なので、いやいやそんなことはない今回だけたまたまと返すこともできないのですが、たまには考えたことをそのまま書き連ねるというのも悪くないですよね。

 まず一番おかしいのは、なんの断りもなく主語に一貫性を持たせていないこと。何も主語は必ず「は」なり「が」なりを伴わなければいけないとは思わないし、実際この文にように「政府としては」という形で主語を示す文は新聞記事(これを日本語の模範とすべきかについては別途議論の余地はありますが。)にも見られるので良いのだけど、よくよく見ると、「~の方針の下、~の意向を踏まえ、~調整を行」ったのはたしかに「政府」だけど、「韓国に向けて出国し」たのは「脱北者9名」なわけでしょ、気持ち悪すぎる。

 この気持ち悪さを是正する方法はぱっと思いつく限り2つあって、1つは、単純に主語を明記してしまうこと。

 9月13日に能登半島沖で発見された脱北者9名について、政府としては、人道上の見地から適切に対応するとの方針の下、韓国行きを希望するという本人たちの意向を踏まえ、韓国側との調整を行い、これを受け、本4日(火曜日)午前、当該脱北者9名は、韓国に向けて出国しました。

これでずっと良くなるとは思うけど、だったら一文にするなよ、という指摘は免れませんね。そこで、文頭の「9月13日に~について」を文全体の目的語を提示したものと見れば(実際、「適切に対応する」の目的語は脱北者以外に考えられない。)、こうすることも可能ではないかと思われます。

 9月13日に能登半島沖で発見された脱北者9名について、政府としては、人道上の見地から適切に対応するとの方針の下、韓国行きを希望するという本人たちの意向を踏まえ、韓国側との調整を行い、本4日(火曜日)午前、これを韓国に向けて出国させました。

ただ、使役の助動詞を使うことで、実際に発出された文章以上に、行為の中に政府の主体性を見出しやすいので、発出する側は好まないかもしれませんね。

 この気持ち悪い点をクリアすれば、あとは読めなくはないと思うのだけど、それにしてもまだあることはあります、気になるところ。「韓国行き」という中途半端な名詞の形を使うこと、脱北者たち以外に人格は登場していないのに安易に「本人」という名詞を使うこと、など。別に問題は指摘できないけど、「韓国側との調整」も気に入らない。ドイツ語みたいに長い名詞を作る必要があるところじゃないんだから「韓国側と調整を行い」でいいんじゃないですかね。あ、ここにも「9月13日~について」がまだ引っかかって来ていますね。日本語はこれだから面白い。
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