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 アンジェにて、日本語にあえて訳すとすれば「国籍付与式」なるものに出席する機会を得ました(もちろん、といってはなんですがボク自身にフランス国籍が付与されたわけではなく、単に陪席しただけですが。)。昔は役所の窓口で事務的に行われていたそうですが、ここ15年ぐらい、フランス全土の県庁でこういう式典が定期的に開かれているそうです。

 冒頭、「フランス国籍を取るということ」というテーマで作られた6~7分程度のDVDの放映。自由・平等・博愛に政教分離を加えた4原則の内容を説明し、それに基づいてフランス国籍とともにフランス国民としての権利が与えられることになりますという内容でした。さらに、権利に伴い、一定の義務も課されるということも説明されていたし、権利の中でも選挙権・被選挙権についてはより具体的に説明されているという印象を受けました。最後の部分では、フランス国民になった以上、フランスにとどまらず欧州連合の枠組における権利を享受し、義務を負うことになるのだということまで説明されており、シンプルな構造ながらよく作られたビデオだなという感じでした。

 それから知事のスピーチ。10分弱いだったかな。フランスという国家の代理人として(事実、フランスの県知事は官選で役人の局長級が命ぜられ、国家の代理人として地方行政に携わります。)皆さんがフランス国籍を取得されたことを謹んでお祝い申し上げますという一言から始まり、この式典の日という国籍を付与される人たちにとって特別な日となる日を歴史的大局観の中に位置付けるという内容でした。ナントの勅令(信教の自由)、フランス革命(基本的人権の尊重)、二月革命(奴隷制の廃止)…という歴史を踏まえ、そういう国の国民となるあなたたちにはまさにフランス国民としてそれらを享受する権利が与えられるのです、おめでとう、という内容。なかなかいいスピーチでした。日本ではまず見ないけど、こういうスピーチをする/書けるようにはぜひなりたいものですね。

 その後、ラ・マルセイエーズが流され、全員起立。都立高校の卒業式における君が代斉唱をめぐる裁判のことを思い出しながら聞いていました。それが終わると、卒業証書のように一人一人に書類の授与が行われました。知事の他に、県内の大きな街の市長さんたちや、県内選出の国会議員さんたちも出席していたので、それぞれが住まう地域の市長さんなり議員さんなりから手渡されるという感じの良い授与式でした。それから別室でお茶とお菓子の簡単な立食パーティー。

 要するに、やることは「書類を渡す」ということであり、15年前まで行われていたというように窓口でほいって無造作に渡せば済むことなのだけど、これをこうまでシンボリックに行うということには何らかのメッセージを感じました。もちろん、帰化した外国人が全員そろってフランス社会にしっかり統合されるわけではないというのが現実だし、実際、経済的・社会的に難しい問題を抱えている人たちもいるのだとは思うけれど、そうであるからこそ、その中でも国が受け入れると決めた人たちに対してこれだけのことをやってフランスってこういう国なのよということを示すことには意味があるのではないかと素直に思いました。
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 先週末、パリはバスティーユのオペラ座(新しい方=「オペラ座の怪人」のオペラ座ではない方)でR・シュトラウスの『サロメ』を見て来ました。オペラ座での鑑賞は、来仏以来3度目。話自体もなんだか奇妙な内容だし、全1幕で間に一切休憩は入らないしということで、この作品を見るのは実は初めてだったのですが、すごく良かったです。何がって、歌もさることながら、今回はオケの質がかなり高かったなぁという感じ。言葉どおり期待以上の出来で、終演後のカーテンコールでは真剣に拍手喝采しました。指揮はピンチャス・スタインバーグだったのだけど、要するに彼が良かったんだろうなという感じ。まさに大熱演でした。

 他方、演出については多少疑問に残るところもあって、まず、クライマックスというべきサロメの「7つのヴェールの踊り」が、ときどき生足を艶めかしく見せてみたりはするものの、要するにヘロデとの小学校のフォークダンスみたいな感じになっていて、これじゃあどうしてヘロデがそこまでサロメに踊るよう懇願したのかよくわからないじゃないかとやや興醒めでした。やはりこの踊り、「7つのヴェール」の踊りであるからには、いわばストリップのような形を取っていなければ意味がないわけで。別に歌手に裸になれとは言わないまでも(かつてはそういう演出も実際にあったらしい。)、少なくともヘロデが取りつかれたようにこの踊りにこだわるのが腑に落ちる程度にはそういう要素もなくてはいけなかったのではないかなぁ。

 あとはラストシーン。オスカー・ワイルドの原作も含め、ヘロデが「サロメを殺せ」と命じるところで終わるというのがお決まりのパターンだと思っていたのだけど、王がそう命じた途端、後半はずっと舞台上にいなかったナラボートの奥さんがいきなりどこから登場してサロメの首を掻き切るという演出になっていて、びっくり。人々が「サロメ」という作品に魅せられる理由の一つに、サロメの浮世離れした感じ、と言ってしまうとちょっときれいすぎるかもしれないけど、とにかく彼女の「この世のものとは思えない何か」に魅せられてしまうからという要素は絶対にあると思うのだけど、そのサロメの最期を眼前で示されると、一気に現実に引き戻される感じがしてしまうと思うのです。あとは、そこで登場するのがなぜナラボートの奥さんでなければいけなかったのかも意味不明。

 以上2点、それなりに手厳しく書きましたが、総じて大満足の出来栄えでした。ドイツ及びイタリアの諸都市に比べると、名声は一段下がるかなという感じも否めないパリのオペラですが、いやいやそんなことないじゃないかと真面目に思いました。今シーズンは演目も良いので、これはちょっと定期的に通ってしまいそう。お財布と相談して…と思ったけど、東京で同じものを同じ席で見ようとしたら、値段は倍は下らない、下手したら3倍?4倍?という感じだと思うので、お財布と相談しているヒマなんてないかもしれません。
 というタイトルで割と長文の投稿をしたのに、消えた。しかも、ツイッターの更新通知はきちんと流れたのに、なんで肝心のブログ本体が更新されていないの? fc2意味わからん…。まぁ、どうせ懲りずにブラウザ上で直接書き込んでいるこちとらが悪いんですよ、はい、はい…。
2011.09.07 読書計画
 「家」の概念に捕らわれた世界の中で完結している大規模な小説が好きという自分の嗜好を最近発見したというのは以前に書いたかと思いますが(もちろん、それはあくまでも舞台設定の好みであって、文体その他の好みの影響の方が大きいのは間違いないけれど。)、それを受け、親愛なる同僚からじゃぁ次は「失われた時を求めて」を読むべきではないのか、せっかくフランスにいるんだし、という提案を受けました。

 たしかに。

 外国文学にはこれまであまり手を付けてはいなかったのですが、これは読むべきかもしれない。少なくとも、「社会常識」に収まる範囲でしかあらすじとかは知らないけど、この小説は、少なくとも舞台設定と規模に関する限り、ボクの好みに合いそうだ。もちろん、読むとしても原文にトライなんて愚かな真似はしません。しっかり日本語訳で読ませていただきます。問題は、岩波にするか、光文社にするか。ミーハー感覚からいうと、光文社の新訳シリーズで読んでみたい気もするけれど、やはり本棚に並べるには岩波がいいかなぁ、なんてしょうもないことばかり考えています。

 それはそうと、外国文学も良いのだけど、やはり日本の文学もということで、学生時代からずっと読もう読もうと思っている源氏物語にもそろそろ手を出したいところ。こちらは、間違いなく谷崎訳で読もうと思っております。(主語を頻繁に省略する)原文に忠実な訳し方をしているので最初に読むとわかりにくいから第一読は他の訳本を使うと良いとはよく言われることではあるようですが、まぁあらすじは知っているし(漫画「あさきゆめみし」でだけど。)、こちらはトライしてみる価値はあるでしょう。それにしても、「あさきゆめみし」の仏語版、出ればいいのに。
2011.09.06 ほととぎす
といえば、あれですね、信長・秀吉・家康。もちろん本人たちが読んだ句ではないそうですが、3人それぞれの特徴を端的に言い当てている句として、子どもの時から親しんだ人もたくさんいるのではないでしょうか。今日、注目したいのはそれらの最初の5字。皆さんはどういう風に習いましたか? ボクは「鳴かぬなら」と習いました。世代によっては「鳴かざれば」と習う人たちもいるのだとか。

ここで「なんで? おかしくない?」と思ったあなたは、高校でちゃんと古典文法を勉強した方ですね。「鳴かざれば」の「ざれば」は、「打消の助動詞『ず』の已然形+接続助詞『ば』」つまり「已然形+ば」なので、順接、つまり、「~なので」とか「~ところ」と訳すというのが定石ですね。ところが「鳴かぬなら」と習った方の多くは、その意味するところを、Siun coucou ne chante pas、つまりIf a cuckoo doesn't sing, と認識してはいないでしょうか。つまり「もしも~なら」という仮定、古典文法でいうところの「未然形+ば」を連想させるようなニュアンスで習ってはいないでしょうか。でも、もし「鳴かざれば」が原文なのだとすると、その意味は「鳴かないから」となるはずで、「Si un coucou ne chante pas」「If a cuckoo doesn't sing」ではないはずなのです。

ここまで考えると、「鳴かぬなら」というのはいかにも後世に作られた現代語調の言い回しなので、「鳴かざれば」が正確なのだろうという推測が働くわけですが、ここで次の7字にも注目したいと思います。たとえば秀吉。「鳴かせてみせよう」というフレーズが有名ですが、どうやら「鳴かざれば」で習った人たちも同じように「鳴かせてみせよう」でならっているようです。何が言いたいかというと、めちゃくちゃ現代語じゃんということ。家康の「鳴くまで待とう」にしても「鳴くまで待たむ」ではないのか、と。

これらの句の成立について詳しいことは知りませんが、意外とすごく最近できたもので、文法のルールを蹂躙するような乱暴な方法で適当に作られたものなのかもしれないなと思いました。それにしたって、こんなに整合性が取れていないのってひどいと思いませんか? もっとも、江戸時代の文法なんてボクは知らないし、おそらく普通の人が古典文法として習う文法は平安朝において成立した文法だと思うので、もしかしたら「鳴かぬなら」とか「鳴くまで待とう(あるいは「待たう」?)とか江戸時代には言っていたのかもしれないけど。
2011.09.01 毎月1日は
 とまではいいませんが、何か月かに1回、●月1日は「ぶんログ」の更新が再開されます。今回も、そういうわけでキリが良い9月1日に再スタートを切ります(フランスはまだ8月31日だけど。)。今度は何日続くことやら。週末にはさっそく出かける予定があるので、早くも3日後には毎日更新という野望(?)は崩れ去ることになっていて、これを幸先が悪いと取るべきか、最初から完璧じゃない方がハードルが下がって続けやすいと取るべきか、まだわかりません。

 日本人はいまだにブログが大好きで、それぞれのブログにとどまっている時間は世界最長だということのようですが、そうはいってもtwitterなりfacebookなりもどんどん勢力を広げているわけで(twitterに至っては、日本は主力ユーザーなのではないかとすら思う。語数でなく文字数で制限をかけるとすると、日本語はイ・ヨ系の言語等より何かを言うのによほど適した言葉だと思う。)、別に初めて発信するわけではないのだけど、数日前に中西部はロワール地方のアンジェに引っ越してきました。というか、アンジェに引っ越すことになったということについては、おそらくこのブログにも書きましたね。

 というわけで、また右も左もわからない生活が始まったわけです。まぁ、留学を終えても、2年に1度は人事異動があるという世界で生きて行くので、右も左もわからないという状態に慣れっこになっておくこと自体悪いことではないのだけど(?)、それにしても落ち着きませんね。しかも今回は、知っている人が本当に誰もいないし。まぁ、引越し(例によって巨大なスーツケース、中型のキャリーケース、ボストンバッグ1個ずつ)による筋肉痛も治ったので、ぼちぼち頑張ってまいります。
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