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という天気予報になりがちな最近ですが、にもかかわらずなぜブログを引き続き存続させているかというと、やはりそれなりにまとまった量の文章を書くということが必要なのではないかと思うからです。必要などというと大げさに聞こえるかもしれませんが、実際のところに本当に「必要」だと感じるので、あえて必要なのだと言わせていただきたいと思います。「ブログときどきtwitter」ではなく「twitterときどきブログ」となることからもわかるとおり、1つの記事又は1つのツイートを書く行為を1単位と考えた時、単位数の密度は圧倒的にtwitterの方が高いといえるのは確かです。しかし、twitterにはその定義上140字という字数制限が存在するわけで、その字数制限によって物事を思うがままには書けないという事実上の制約が課されることになります。外国語でツイートするのと比較した場合(ボクが比較することができるのは英語とフランス語という2つの、しかもいずれもインド・ヨーロッパ語族の言語に過ぎませんが。)、日本語は140字という限られた字数でより多くのことを表現することに恵まれた言語であるとは思いますが、それにしても字数制限はツイート欄に厳然と存在するわけで、それにアジャストするためにボクたちは自然と語調や文体を変えているのだと思います。単純な話、普段ならひらがな又はカタカナで書くものを漢字で書いてみたり、普段なら述語を明記するところで体言止めを使用してみたり、接続詞を使用せずに句点でもって重文又は複文を2つの単文にしてみたり。つまり、twitterに現れる文章というのは、書き手がtwitterではないフォーマットで記述する文章(その代表例としてブログを一例に取り上げています。)とは、一定程度隔たったところに位置していると考えざるを得ないわけです。と考えると、より「本来の」、という言い方をあえて使おうと思いますが、文章の姿に近い文章を表出させる場として、ブログにも一定の価値はあるかなと思うわけです。

他方、ブログには「制限がない」からして、かえって気後れする部分が生じるというのもまた事実です。というのも、たとえば本の読後感、映画や舞台の感想、音楽や展覧会の批評など、自分の感性でもって感じたことを言葉に落とし込むという作業をする際、そこには必ず一定以上の妥協が伴うわけですが、ブログには、少なくとも字数については制限がないわけですから、そこにその種の妥協が存在するということを感じさせない何かがあると思うのです。すると、自分は感じたものを完璧に言葉に落とし込めている気がしない以上、そこで書かれたものには一定以上の妥協が伴われているにもかかわらず、それをあたかも完全なもの(であると自分が認識しているもの)として他人の視線にさらさなければいけないということになるわけで、それは拷問にすら近いものであると感じざるを得ません。こんなことを考えると、何かいいものを見たり聴いたり読んだりした後であればあるほど、ブログを書くことのハードルがどんどん上がってしまうわけです。twitterとは違って、本来の文章らしい文章を書くための場としてブログが存在しているにもかかわらず(その点、twitterを使うと、どこで何を見た、良かったという誰にでも書ける文章にすべてを収束させることができるので、それのどこが面白いのかという議論は別途あるにせよ、1単位分のものを書くということはよほど簡単なことだとは思います。)。そのハードルがどの程度高いかについては、書き手の自尊心や自意識にも左右されましょうが、そういうものを一切持っていないという人もいないでしょうから、多かれ少なかれ誰の目の前にも現れ得るハードルだと説明してしまっても乱暴とはいえないでしょう。

なーんて、こんなことをつらつら書き連ねていますが、本や映画、音楽や展覧会、はたまた食事の感想等を文章にすることももちろん好きは好きとはいえ、自分は、要はこうやってフォーマットそのものについて論じるのもとても好きな人間なのだなということを改めて感じます。仕事についても似たようなことを最近は考えていて、面白さを感じているのは、仕事の中身そのものというよりも、仕事のやり方、文章の書き方、プロセスの進め方等なのであり、中身については単なる知的好奇心を超えるものではないのかもしれないと思うわけです。もっとも、知的好奇心と簡単な一言で表してしまいましたが、その対象となるものもそう多くはないでしょうから、仕事を選ぶという観点からはそれだけでも十分だったといえるかもしれません。
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2011.04.29 すごい年下
 身の回りを立派な後輩たちに囲まれているのでそれはとても有難いことだと常日頃から思っていますが、それとは別に、自分の身の回りの世界とは違うところで年下のことを立派だと思い始めたのはいつのことだろう。ぱっと思い付くのは、大学に入学した時、高校球児たちはみんな年下になった。社会人になった時には、多少の例外はあれど、箱根駅伝のランナーがみんな年下になった。ボクは、高校球児になることも箱根駅伝のランナーになることもないということは明らかだったから(能力の点でも関心の点でも)、その意味において彼らはもともとボクとは違う世界に住んでいたといえるのだけど、最近は、専門が同じとは言わずとも、文字を読んだり書いたりすることで光るものを見せている人にも、年下に当たる人がいるなと思う。

 今日は、たまたま遭遇した母校の学生さんのブログ。現時点での彼のアウトプットがものすごいものなのかどうかはよくわからないけど、とてもいい感じで毎日いろんなことをインプットする生活を送っている様子が手に取るようにわかるブログ。自分自身もそれなりには充実した学生生活を送ったとは思っているけれど、この人のような学生生活を送ることができたら(具体的な「生活」そのものというよりは、興味の対象とか、個々の選択の結果とかにおいて。)より楽しかっただろうなと素直に思いました。ある種の羨望といえるだろうか(だとしたら、それは若さなり選択肢の多さなりに対する羨望? 年とったなぁ。)。読むべき本、見るべき映画、聴くべき音楽、勉強しておくべき事柄、会っておくべき人、言い出したらキリがないけど、いくらでもあったなぁと。学生諸君、毎日を豊かにするためにやれることはいくらでもあります。時間が限られているということに気付いている人もそうでない人も、思うがままに頑張って。
2011.04.28 『豊饒の海』
 最近、三島由紀夫『豊饒の海』全4冊を読み終えました。とても印象深く記憶に刻まれる作品でしたが、どなたか映画版『春の雪』(全4冊の1冊目)を御覧になったことのある方はおいでですかな? 予告編を見る限り、本多役(全4冊を通じての観察者。ボクのお気に入りの登場人物。)の高岡蒼甫がいまいちなのではないかという気がひどくするのですが。






 映画を見てきました。今週封切られたばかりのダニエル・オートゥイユ初監督作品。『画家と庭師とカンパーニュ』(日本でもDVDが出ています。必見!)でものすごく気に入ったので、楽しみにしていたというわけです。ストーリーは、動きがないというかすごく素直というか、とにかく単純なので、この後どうなっちゃうんだろうとか思ってドキドキしながら映画を見たいという人にはオススメしませんが、かといって単なる「いい映画」で終わっている感じもなく、数多く織り交ぜられている南仏の美しい景色がとても印象的で、見終わった後に「いい気分になる」というのとは違いますが、ある種の気持ち良さの残る映画だなという感じがしました。

 日本で封切られるという情報は今のところないので、日本で公開される機会があるかどうかはまだ定かではありませんが、もし公開された場合はぜひ。問題は邦題で、原題を忠実に訳すと「井戸掘り師の娘」となるのだけど、それじゃちょっと売れなそうですよね。原題は『La fille du puisatier』というのだけど「puisatier」が含むニュアンスと「井戸掘り師」という聞き慣れない単語が醸し出す印象というのが大きく異なっているような気がするのです。かといって、原題とは全然違うじゃんという邦題を付けて、「これはうまい」と思わせられる例も決して多くないので、難しいところですな。

 ダニエル・オートゥイユは、早くも次の監督作品の準備を始めているそうで、次の映画の原作も、この映画と同じマルセル・パニョルによるものだそうです。パニョルの作品は読んだことがないけれど、『画家と庭師とカンパーニュ』(この作品こそ原題と邦題が異なる。原題『Dialogue avec mon jardinier』を直訳すると「庭師との対話」。)といい、この作品といい、雰囲気というか絵というかは大好きなので、おそらくオートゥイユ自身の趣味ということなのでしょう。したがって次回作も楽しみ。果たしてボクがフランスにいる間に封切られてくれるでしょうか。

 ヒロイン役のアストリッド・ベルジュ=フリスベは、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の最新作にも抜擢されているそうなので、これから大活躍していくんでしょうねぇ。この役どころはとても上手にこなしている印象を受けたし、なにより雰囲気づくりが上手だなと感じました。もっとも、作品の中で変化に富んだキャラクターではなかったので、いろんな役どころを演じることができる女優さんなのかどうかはよくわからなかったけど。それでも、それなりに心理描写の点で表現力を求められる役を見事にこなしていたと思いました。

 また名脇役的ポジションには、カッド・メラ。『Bienvenue chez les Ch'tis』というフランスで驚異的に大ヒットした映画で主演した性格俳優で、正直役どころはかなり微妙だったのだけど、それをああいう形で存在感を放つ役柄に仕立て上げられたのも彼ならではというところでしょうか。
2011.04.14 文化週間
この1週間はとても文化的な夜を毎晩のように過ごしておりました。ので、御報告。写真とかもいろいろ撮ってきたんですがね、どうも取り込んだりアップロードしたりするのが面倒で、それがブログ更新の一つの足かせになっているとも思われるので、今回はテキストだけで。

6日(水)
シャンゼリゼ劇場で急遽開催されることになった日本復興支援のイベント。百年に一人の逸材と言われるトップダンサーのシルヴィ・ギエムが言いだしっぺになり、アルゲリッチ、ネルソン・フレイレ、庄司紗矢香など、各界のトップアーティストが20名以上参加し、ダンス→演奏→詩や俳句、被災者の手紙の朗読というのを繰り返して2時間半。すごかったです。NHKでもそのうち放送するらしい。

7日(木)
オルセー美術館で前々日から始まったマネ展。25歳以下は例によって無料なので、26歳にならないうちにということで。展覧会の構成自体がよく考えられていて、さすが学芸員の企画力のレベルが高いと痛感させられました。日本でもたまにあるけど、このレベルの展覧会がもっとたくさんあると良いのになという感じ。ある画家orある美術館の作品をとりあえず集めて、時代順に並べました、というのが多すぎますね、本邦は。

9日(土)
バスティーユの方のオペラで、「ロミオとジュリエット」のゲネプロ。本公演の前売り券はもうとっくに完売になっていて見られないなぁと思っていたのだけど、オペラ座専属のバイオリニストの知り合いが、ゲネプロのチケットをくれたので。全自由席で、1階前方はすべてプレスに取られているという状態の中、彼女の案内もあり、2階の横でステージに近い席というのを押さえられ、満喫しましたー。オケの人たちが普段着を着ているのと、プレスのカメラのシャッター音がときどき聴こえる以外は、本公演と同じ。

10日(日)
ユネスコで、これまた日本復興支援のコンサート。今度は、コンセルバトワールの卒業生の日本人を中心としたオーケストラで、箱がかなり大きかったから(1350人)かなり大規模で、パリ中の日本人が集まったのでは?と思われるほど大盛況。ソリストは、去年ジュネーヴ国際で優勝した萩原麻未で、優勝した時に弾いたラヴェルのコンチェルト。武満のレクイエムで始まり、ドヴォルザークの新世界からで終わり、アンコールは合唱付きで「さくら」と「ふるさと」。

11日(月)
サル・プレイエルでネルソン・フレイレのリサイタル。シューマン、プロコフィエフ、グラナドス、リスト。アンコール1曲目は「主よ、人の望みの喜びよ」で、特に本人のコメントがあったわけじゃないけど、日本のことを考えての選曲なのかなと勝手に思い、感動していました。2曲目はアナカプリの丘、3曲目は良い曲だったんだけど知らない曲だった。周りのお客さんもなんだろうねと言っており、マイナー作品と思われる。でもスタンディング・オベーション。パリでは結構珍しい。グラナドスが今更ながらかなり気に入ったので、今度弾いてみようかなぁー。


いわゆる「自粛」ムードに照らせば「不謹慎」という人もいるかもしれませんし、実際、フランスでお金を使ったところでなんの貢献にもならないのですが(逆に、日本にいる人たちは、飲み食いして遊んでいっぱいお金を使うべきだとボクは思う。)、一部は復興支援イベントということで、ちょっとした貢献もできたかなぁと思っているので、御容赦を。もちろん、貢献した分より、楽しませてもらった分の方が大きいことはわかっていますが。

これ、冷静に見ると、何もできない海外にいるが故により強くそう感じているという一面もあると思うけど。これから死ぬまでの数十年間、日本人はずっとこの震災の話をするのだろうけど、自分たちは地震の瞬間も、更にはその後の復興プロセスの数か月、数年も海外で暮らしているから、きっとその記憶を共有できないと思われるんだろうな、なんて考えたりもします。

何はともあれ、こんな感じで充実した毎日を過ごしております。
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