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2009.10.31 パーティー
久しぶりに司会なるものをしました。ホテルの宴会場で。180人の前で。高校の文化祭みたいなものとか、朝礼とか、大学時代の演奏会とか、いろいろ思い出すと何も180人の前で喋ることは全然初めてではないのだけど、その180人が社会人ばっかりであるとか、その会場が比較的しっかりしたホテルの宴会場であるとか、そういう点では初めての要素もとても多いシチュエーションでした。人の紹介とかもいっぱいしなくちゃいけなかったので、ところどころ原稿は作って行ったものの、やはりその場で急に言わなければいけないこととかも多々発生するわけで、結局いつものアドリブと変わらないじゃん、みたいな感じでした。やはりカミカミだったというのも御愛嬌。この点、原稿を用意した部分については、多少早口になったことは否めないけれども、カミカミの頻度は相対的には低かったかも。あくまでも相対的にであって、その差は誤差の範囲のような気はするけど。

予想以上にたくさんの人に来てもらい、中でも現役学生諸君の参加率がとても高く、そういう意味では良い会だったのではないかと思います。余興の類は気の利いたものを用意できなかったけど、それでもまぁみんなおしゃべりに花が咲いて、間が持たないみたいなことはなかったみたいだし。やはりね、なんだかんだオトナたちは久しぶりに会う人同士が多かったんでしょうから、その場に学生時代を共に過ごした人が一緒にいるというだけで十分なのですよね、きっと。オトナたちは現役学生諸君とからみたがっているのだという話はときどき耳にするけど、たしかにそういう人がゼロだというつもりはないものの、ほとんどのオトナにとって、やはりプライオリティは久しぶりに会う既知の人々なのではないでしょうか。

それにしても、会場で配られた冊子の中身、一部すごいものがありました。どうしたもんか。

これでまた一つ幹事が終わりました。あとは、年末の同窓会。
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2009.10.30 待機
久しぶりにいっぱい残業をしました。残業といっても、ずーっと何かの作業をしていたのかと言われるとそうではなくて、ただひたすら何かを待たなければいけなかっただけなのだけど。いや、正確に言えば、長期的にやらなければいけないことはたくさんあったのだけど、それには手を付けることなく、ひたすら待ち続けたというだけだから、半分ぐらいはボクの怠慢でもあるのだけど。でも、不思議なもので、時間があったらやるのになーと普段は思っている長期的な仕事も、とにかく待たなければいけないという状況になると、時間はあるのに手を付けられないのですね。おそらく、意識の根底で、今は待たなければいけないなんてことになっていなかったら、とっくに帰っていて、この長期的な仕事を進めることもなかったんだから、別に今あえて進めなくても良いはずだ、みたいな整理をしているせいだと思うのだけど。人間、なまけられるときにはとことんまでなまけてしまうものですね。反省。
というニュースがやっていましたね。発行枚数は昨年比5%減らしいです。報道によれば、電子メールの普及等が原因ということですが、電子メールの普及率が昨年比5%増かというと、そうとはとても思えないのですね。1人が持っているメールアドレスの数とかを話題にするのであれば、平均5%ぐらい増えているのかもしれないけど、ネットにアクセスできる人の数自体には5%増えるほどののりしろがなかったはずだし、昨年までネットは使っていたけど年賀状は出していた人のうち、今年から急に年賀状を出さなくなる人というのが相当数いるとは思えないし。むしろ、ネットを使う人のうち、昨年までは年賀状ではなくメールで済ませてはいたけど、入学、就職、退職等を機に年賀状を出し始める人というグループもそれなりの規模なのだろうし。

もちろん電子メールの普及『等』という話だったので、報道として誤ってはいないとは思うのだけど、それにしても詰まってませんよね。ニュースをボーッと聞いているだけのボクみたいな人まで説得されないという点において。10年前ならまだしも、今更何を言っているんですか、この御時世に、という感じ。日本郵政がそういう発表の仕方でもしているんだろうか。だとしたら、それこそ本当にアホだと思うのですが。あんたたち、自分の事業をまともに分析することもできないなんて、そんなことやっているからいつまでもつまらないことで叩かれるんですよ、みたいな。まぁ、叩かれること自体、彼らにとっては自分たちの外側で起こっていることによって叩かれているわけでだから、彼らに罪はないのだと思うけど。いずれにせよ、なんだか寂しくなりますね、ああいう中身のないものを見ると(報道が悪いにせよ、当事者のデリバーの仕方が悪いにせよ)。
うちの会社の会長が、海外の会社との間で作った文書に署名するという儀式が今日行われ、たまたまその文書に関する仕事を担当していたので、そのお付き添いを務めさせてもらいました。海外の会社からもやはり会長さんがいらして、お互いに文書に署名して交換するというもの。付き添いは付き添いなので、会長にペンを渡したり、文書の交換のための受け渡しをやったり、という程度のことしかしないのだけど。とはいえ、今の会長を見るのは初めてだったので、そういう場にいるというイベントだと思ってみれば、それはそれで楽しかったです。先方の東京支社の社員さんとも結構おしゃべりできたし。ちょっとしたハプニングもあったりしたけど、それはそれで御愛嬌。

…仕事の話を書くことは滅多にありませんが、試しにと思って書いてみると、やはりちょっと違和感がありますね。むしろ落ち着かない感じ。というか、仕事で関わる人がどういう人でその人に対して日常的にどういう感情を抱いているかということから説明しようとすると、どうしても冗長かつ独りよがりな記述になってしまうし、それは担当している仕事がどういう仕事で今どういう状況にあるかということについて説明しようとしても同じわけで。まぁ、直接お会いした時には、少なくともここに書いているよりは詳しくお話しできるような気もするので、お会いする機会のある方たちに対してはその時にでも。いずれにせよ、仕事の話を書くの、加減がよくわからなくてかえって疲れます。一番の日常のはずなんだけどなぁ。
2009.10.27 花粉症
なのではないかと思うのです、最近。

鼻づまりもまぁあるにはあるのだけど(少なくとも、匂いがあんまりわからないぐらい。)、とにかくひどいのは目頭の痒み。気が付くと指でがちゃがちゃ目頭を引っ掻き回しています。秋の花粉症はもともとあるんだけど、それにしても痒いです。

テレビとかでは全然話題にならないから、春のスギやヒノキに比べると、そんなにいないのだろうか。秋は、ブタクサだとかセイタカアワダチソウだとか言うけど、それらの花粉情報なんて絶対やらないしね。ボクはむしろヒノキにはそんなに反応しないのだけど(調べてもらったわけではなく、今はヒノキがひどいですねとテレビで言われる時期にはあまり発症しないというだけ。)。

というわけで、地味に疲れます。だって痒いんだもん。
2009.10.26 豪ドル
の定期預金を始めたという話を覚えている人はいるでしょうか。1年の定期で、先日ちょうど満期がやってきました。申し込んだ頃は金利が5%台だったので、たとえレートが変わらなくても5%は儲かるという素晴らしい定期だったのですが、そのレートも10円近く上がっていたので、ホクホクでした。満期が来たところで解約すれば、多少のお小遣いにはなるなぁーと目論んでいたのでした。

ところが、満期になる前日。豪州が、金融危機後、G20の中で初めて政策金利を上げたのです。豪州はもともと政策金利が高めなので、その豪州が政策金利を上げたら、しかも他国の先んじて上げたら、投資家の資産が豪ドルに集中するのは明白。利益確定する気満々だったのですが、その日のうちから上がり始めたレートを見て、継続することにしてしまいました。

結果、今は満期になる前日よりも6円近く高い状態が続いており、もしかしてナイス判断したんじゃないか、と早くも思っています。まぁ今の時点で上がっていても、次回の満期の時にどうなっているかしか大事ではないのだけど。でも、次回の満期の時には日本にいないし、もちろん自動継続しないようにしておいて家族に手続に行ってもらうなどして、利益確定させることもできるんだけど、どうせ通常の通帳に入っているお金ではないし、もう捨てたものと思って、数年後に思いつきで解約してみる、というのも面白いかもしれません。この円高と言われている御時世に、ここまで上がってくれるとは。

唯一難点があるとすれば、金利が多少上がったとはいえ、1年前ほど高くはないわけで、そういう意味では別に継続することの旨味が薄れているということ。まぁ、そうはいっても、普通に日本円で定期預金に預けることに比べれば、ずっと良いんだけど。ちなみに、3.12%です。
2009.10.25 読みたい本
が増えていくという悩みは、何も今に始まったことではありませんが、読みたい本があるということ自体がストレスであると感じることはときどきあります。なんだか本末転倒な気もするけれど。書店に行くと、毎日新しい本がどんどん刊行されていて、その中には魅力的に見える本もたくさんあって。もちろん買うだけで満足してしまう類の本って多いと思うし、事実、そういうふうにしか消費されない本というのも世の中たくさんあるのだとは思うけど。

今は、引き続き岡義武の『国際政治史』を読んでいます。半分ぐらい読んだかな。内容は、大学1、2年生のときに読みたかったなぁと思いながら読む程度なので、別にそこまで難解なことが書いてあるわけではないのだけど(事実読み返さずにスムーズに読めるし)、ただでさえ本を読むのが遅い僕は、文学作品でない本を読むのには更に時間がかかるので、なかなか進みません。読む行為に時間がかかるというか、一気に読み進めることができないというか。

本を読むのが遅いというのは本当で、一度、本をたくさん読む同期と読むスピードを比べたことがあります。方法は簡単で、よーいどんで同じ本を読み始めて、彼がページをめくったところで僕がどこまで読んでいたかを計るというもの。結果、彼が1ページ読む間に、僕は同じページを3分の1しか読むことができていなかったのです。それって、僕が100ページ読む間に彼は300ページも読んでいるというわけで、その差はかなり大きいなぁと嘆き悲しんだしだいです。

岡義武が読み終わると、『日本語が亡びるとき』の影響を受けて近代日本文学を読もうと思っていた頃に買っておいた鴎外の『雁』が控えています。さらには、佐藤賢一の『小説フランス革命』の4冊目が刊行されたのでそれも読みたいし、いいかげん河出書房の池澤夏樹セレクの世界文学全集にも手をつけたいし。それに手をつけると、全24冊で、かつ、さらに6冊追加されるらしいので、それを読んでいる間にますます読みたい本リストが増えてしまいそうです。ちょっとジャケ買いみたいなところはあるけど、あの全集に入っている文学作品、知っておいたらいいんじゃないか、と漠然と思うのですよね。もっと読むべき本あるだろ、という御指摘は甘んじて受けますが。
というものがあるんです、本当に。自販機で見つけて、なんだこれ!?と思って、試しに買ってみました。味はライチの味ばかり。「オ・レ」と書いてあるものの、ミルクの味なんて全然しませんでした。言われてみると、ちょっとヨーグルトっぽい?程度。そういえば、ヨーグルト+ライチって、美味しい組み合わせかもしれませんね。

原材料を見てみると、「ぶどう糖果糖液糖、ライチ、砂糖、(以下酸化防止剤等6種類)」と書いてあり、さらに欄外に「果汁3%」と書いてある。果汁3%であれだけライチの味を感じるんだから、香料ってすごいですね。というのはさておき、問題は原材料の表示。原材料は、多く含まれている順に記載されているので、砂糖以下の7種類の原材料はいずれも3%以下しか含まれていないはず。ということは、ぶどう糖果糖液糖は100-3×8=76%は少なくとも含まれているということ!?

ここで問題なのが、当該物質がぶどう糖果糖「液糖」であるということと、原材料には水が含まれていないということなのですね。つまり、その76%のぶどう糖果糖液糖がどの程度の濃度のものかがわからないので(つまり、76%のうち、ぶどう糖果糖と水分の比率がどの程度なのかわからないので)、実質的にどの程度のぶどう糖果糖が含まれているのかはよくわからないのです。まぁ、原材料ってその製品の組成をしっかり示すためのものではなくて、何が入っているかを示すだけのものなので、そういう整理でいけばそれはそれで良いんだと思うけど、だとしたら含まれている量の多い順に並べるとか、まったく意味がないですよね、と。というか、ミネラルウォーターとかには「硬水」とかって書いてあるのに、ぶどう糖果糖液糖という形を使えば「水」って書かなくて良いというのも、それはそれで変な話ですよねぇ。
ボクが入社したときは、そんな気の利いたものはなかったのだけど、我が社でも同業他社に倣って採用パンフレットなるものを作るそうで、今日はそれにモデルとして出演してきた。といっても、エキストラだけど。というのも、3人の社員を取り上げるコーナーがあるらしいのだけど、その3人のうちの1人がボクの元上司で、その元上司と若者が打ち合わせをしているかのようなシーンを撮影するということで、元部下であるボクに白羽の矢が立ったというわけ。

元上司がピンで写るところから撮影ルームに同席していたのだけど、はぁ~写真ってそういう風に撮るんですかーという感じでした。ポーズから小道具から何から何までカメラさんの指定。さらに「この先に美人秘書がいるイメージで顔を作ってください!」「今度はすごくグラマーな女性が目の前に現れた感じ」とか言っていたし。また元上司がそれに合わせてうまいこといろんな表情を示すもんだから、カメラさんも喜んでしまって。上司は、いろんなポーズでいろんな表情の写真を次から次へと撮られるものだから、「ほしのあきになった気分だ」とか言っていた。笑

ボクがエキストラとして写る場面も、状況設定がいちいち細かかったです。ボクが差し出した紙についてコメントをしているところとか、それに対してちょっとダメ出しをしているところとか、その紙の内容をめぐって2人で笑い合っているところとか。広告業界の恐ろしさをまざまざと見せ付けられた感じでした。カメラさんを頼んだ採用担当の社員も口をあんぐり開けてびっくりしていたし。

いずれにせよ、元上司は「いやー●●ちゃん(ボク)が目の前にいると臨場感があっていいねー。なりきれたよー。」と御機嫌だったし、それを聞いた採用担当の社員も、ボクにエキストラを頼んで良かったと思ってくれたみたいだから、良かったです。せっかく仕事の合間を縫って撮影に協力したんだから、却下されないといいなー。
昨日、電話応対のコンクールというものが行われたようで、その模様がニュースで紹介された。映った参加者だけがたまたまそうだったのかもしれないが、みんな受話器を持って頭を下げるのはもちろん、身振り手振りで商品の紹介などをしている。さらには、御礼を述べたり、お詫びをしたり、商品の素晴らしさを紹介したりするときに、声だけでなく顔の表情などにもすごく抑揚をつけていて、正直映った人のうちの一人の男性はそれをやりすぎていて真面目に気持ち悪かった。

このコンクール、間違っていると思うのですね。そもそも、そんなものについてコンクールをするというのが理解できないし(逆に、電話勧誘を断る技術についてのコンクールとかだったら面白いと思うけど。)、百歩譲って開催するとしても、なんで顔が見える状態で審査されなくてはいけないのかと。電話応対の審査なんだから、表に出るのは声だけ、という状況で競わせなかったら、コンクールの趣旨に反するじゃないか。気でも違ったかと思わせるようなそんな企画をNHKニュースで取り上げるなんて、まったく理解できませんでした。

コンクールに出るほど電話応対に自信があるなら、審査方法に迎合して顔の表情や身振り手振りにまで抑揚を持たせなくてはいけないようなコンクールのシステムに反感を覚えないだろうか。自信があったら反感を覚えるだろうし、反感を覚えたら、趣旨に賛同できないという理由で、そんなコンクール蹴散らしてやればいいのに。というか、むしろ、超不機嫌そうな顔でめちゃくちゃ愛想の良い電話をかけるとか、鼻くそほじりながら超お上品な受け答えをするとか、その方が電話応対コンクールの趣旨には合致していますよね。あの様子じゃ、そんなことしても入賞なんてできないんだろうけど。
というわけで、同じ中高の出身者で職場が同じ人が集まるという会合がありました。最年少というわけで、当然幹事のお手伝い。既に退職したおじさまがたもお呼びしたので、社内のメールで一括で案内というわけにもいかず、案内状を作るところから始めるなど、これまでこなした幹事の中でもだいぶ手間のかかる幹事でした(自分の名前で出すわけではない以上、文案につき偉い人の了解をもらう必要などがあったから。)。声をかけたのは東京近辺に住んでいる人だけなのだけど、結果として20人弱集まって、それなりに大きな会合になりました。

中華料理屋だったので、2つの丸テーブルに分かれることとなり、必然的にシニアチームとヤングチームになったものの、ヤングチームとはいえ40代後半の管理職も含まれたりするわけで、まぁそれはそれで重みのある会合であったことには変わりありません。その管理職は、以前から知っているとてもフランクな方なので、居心地は決して悪くなかったのだけれども。

いやー、おじさま方は、話は長いし、最近の社内事情が聞きたいもんだから話もちょっと真面目だし、金払いの良さも人によって違うし、遅れてふらっと現れる人がいると思ったら、早めにさくっと帰る人もいるし、となかなかマネジメントは大変でした。ただマネジメントするだけなら良いんだけど、なんだかんだ気は遣うしね。ちょっと疲れました。
始まりましたね。が、今まで一度として行ったことがありません。早く退社できる日があれば、夜9時から上映が始まる作品とかもあるようなので、行ってみたいなぁとは思うのですが、どうなることやら。少なくとも明日と明後日は早く帰れないことが決定しているので、そんなに望みは高くありません。パンフレットによれば、良さそうな映画もそれなりにやるんだけどなぁ。しかも、コンペティション部門だけではなく、ワールドシネマという部門にも、良さそうなのが出ます。たとえば、タンゴ・シンガーというベルギー・アルゼンチン・フランス・オランダの合作映画とか。もう国の名前を4つ聞いただけで素敵でしょ。笑
ロカルノ国際で話題をかっさらったとかいう作品です。あとは、プレシャス!というアメリカ映画とか。前者は水曜の夜、後者は火曜の夜なので、明らかに見には行けないのですが。前者はもう1回やる!と思ったら、それは金曜の真昼間。働いてますっちゅーの。というわけで、なかなかうまくいきません。

ロカルノといえば、世界史選択の皆さんはご存知、ロカルノ条約。先日、高校生クイズがテレビでやっていて、決勝戦の早押しクイズのうちの1問が、ロカルノ条約を答えさせる問題でした。高校の世界史の教科書なんて数年眺めてないけど、問題を聞いて、なんとなく、「ん、ロカルノ条約じゃない・・・?」と思った自分に心から拍手!
経年劣化は思ったほどひどくないみたい。
2009.10.18 テレビ三昧
土曜日、久しぶりにテレビ三昧になりました(いまの一人暮らしのマンションにはテレビを置いていない。)。といっても、エンタ→恋からをぶっ通しで見たというだけだけど。実家暮らしのときは、これぐらい思いっきりテレビを見るのとか普通だったんだけどなぁ。エンタ、久しぶりに友近とか見たいなぁと思ったものの、案の定出演せず、ちょっと残念。でも、東京03とか普通に面白かったです。サンドイッチマンも、M-1で勝ったときはこの後どうなるかと思ったけど、最近はパフォーマンスが比較的安定してきていますね。よろしい。

恋から、出演者がだいぶ変わっていて、時の移り変わりを感じました。「分けて食べる女」はちょっと気持ち悪かったけど。なんでハンバーガーを分解するのか意味わかんないし、カレーも、福神漬け→ゴハン→カレーの順に片付けて行って、カレーの中でも具材ごとに分けて食べて行く、とか、はぁ?って感じ。そりゃぁ彼氏も文句言いますよね。もっとも、納豆の白いゴハンを混ぜるのはちょっと嫌だよね、というところで先輩と意気投合したりしたこともあるんだけど。
2009.10.17 32歳
に見えると言われました、20歳の店員の女の子に。しかも、一緒にいた35歳の先輩は、28歳に見えるとか言われたのに。本当にそう見えたのか、どうせ支払をするのはこっち(35歳)の人なんだから、とりあえずこっち(35歳)の人にゴマをすっておけばいいや、と思ったのか。

後者はあまりにも自分に好意的ですよね。でもねぇ、ボク、君と4つしか変わらないんだけど、という感じですよねぇ。まぁ、落ち着いて見られる(≠老けて見られる)のは今に始まったことではないし、むしろ45歳になったときにも依然として32歳に見える、と言われることの方が重要ですよね。いつまでも見た目年齢が変わらないロマンスグレーを目指します。いや、「グレー」になっている時点で、見た目年齢は変わってしまうか。髪は常に黒くするよう心がけ、グレーになることは避けましょう。そもそも、髪がちゃんとあればいいんだけど。

髪と言えば、市販のシャンプーやリンスのうち、女性向けに髪をつややかにする効能で売っているものは、男性の髪には良くないという話ですね。やばいなぁ、もう2年ぐらい白の「TSUBAKI」を使っているんだけど。というか、そもそも男性の髪に良くないものは、女性の髪には良いのか?という疑問も残りますよね。いずれにせよ、なんちゃらという成分が入っているシャンプーやリンスは、将来的にハゲを促進することになるそうです。うーん、どうしたものか。
昨日に引き続き。

いま始めて気付いたわけではありませんが、80年代のアイドルって、結構いい歌が多いんですよね。

カラオケのレパートリーに加えようかしら。




もちろん70年代は大好きですけどね。

これは既にレパートリーに加わっています。笑

職場で先輩と話をしていて、歌謡界で泣ける名場面の話になりました。会話の中で挙がったシーンが2つ。まずは、80年代を代表するシーン。1985年の日本レコード大賞において「ミ・アモーレ」で大賞を受賞した中森明菜が受賞後に同曲を披露しているところに年老いた両親が登場、明菜が顔をくちゃくちゃにして号泣するという名シーン。続いて、90年代を代表するシーン。1998年のNHK紅白歌合戦において「Canyou celebrate?」を歌う安室奈美恵が、クライマックスで一歩前に出たところで観客の大声援を受け、思わず号泣してしまうという名シーン。皆さん、映像は目に浮かびますか? 浮かばない方はこちら。

明菜は映像を埋め込めないので、こちらのURLから。
http://www.youtube.com/watch?v=UjKNY6PkKi4&feature=related

安室はこちら。


そもそもは、先輩が明菜のシーンを挙げて、いやいや安室もあるじゃないですか、とボクが対抗してみたという展開だったのだけど、先輩いわく、この2つの涙は異質なんだとか。明菜は、聖子との対比において「冷たい」アイドルを演じることを強いられてきて、陰での猛特訓などの苦しさを乗り越えての大賞受賞、それでも気丈に歌っていたのに年老いた両親の顔を見た瞬間に「冷たい」アイドルを演じなければいけないというある種の強迫観念も飛んでしまって、まさに一人の娘に戻った瞬間なのだと(たしかに、そういう風に見るとすごい泣き顔をしている。)。他方、安室は子供産んで復帰しただけで、なんで泣いてるの?と。

ボクの反論は、安室は人気絶頂の時代に産休に入り、それだけでも不安なはずなのに、その頃にはASAYANを始めいろんなところから新世代のアイドルがデビューし始めていて、不安はさらに募っていたはず。復帰したところでこれまでのように受け入れてもらえるか本当に不安だったところに、図らずも観客から大声援を受けて、受け入れてもらえる居場所を見つけたような感覚になり、その安心感から緊張の糸が切れて涙になったのではないか。産休を取ったことにより、芸能界から潜在的に疎外感を感じていたのに、その心配は無用だったと思わせてもらったと肌で感じたからこその涙、というか。

先輩いわく、それは当時中学生だったボクならではの感覚で興味深いと。他方、いまは2児の父となった先輩には、年老いた両親の顔を見て思わず涙してしまう明菜の涙の方がずっと美しく感じるんだとか。そう言われるとそんな気もするものの、やっぱり安室の涙でももらい泣きしてしまうボクがいるのでした。ちゃんと見てね! 一歩前に出始めるのが3分50秒。泣き出すのが4分ジャスト。
そんなものがあるなら知りたいと思ったでしょう?、そこの女子諸君。このフレーズ、ボクが今日のランチ後にそのままテーブルでお茶を飲んでいるときに、先輩から言われて爆笑されたフレーズなのです。ええ、全然誇らしくなんかありませんとも。しかも、狙ったとかじゃなくて、本当に無意識だったから、なおさら。

説明しよう。右手にガラスのコップを持ち、喋っていたので左手の肘はテーブルに衝いていたと思われる。こう書くとだいぶお行儀が悪いけど、まぁ食後だということで御容赦ください。で、左手の手首をちょっと返して(手のひらがちょっと上を向くような状態)、その手首の角度を維持したまま、お茶を飲んで身体がちょっと仰け反るのに合わせて、左手も更にちょっと上を向いた、という状況。ボクは見たわけじゃないので、何がどのくらい女の子っぽいのかわからないのだけど、どうやらその先輩はちょっとツボだったようで、1~2分笑っておられた。うーん。。。

言葉遣いや仕草が中性的と言われることはときどきあって、とかく言葉遣いについては、乱暴な言い回しは全然多用しないし、見る人が見ればそう見えるのかな程度に思っているのだけど、お茶を飲むときの姿勢でもって女の子みたいと言われたのはさすがに初めてだったので衝撃。だからなんだという話でもないんだけど。ここで、だからなんだという話でもないと受け流してしまうのが、良くないんかね。でもねぇ、そうはいっても、実際にそれで困ることってあんまりないし。強いて言えば、男らしい男の人が好きなの☆という女の子からは見向きもされない、とか? でもそれにしたって、ああそうですか、別にいいですよ、あなたになんか見向きもされなかったとしても、こちらから願い下げですから、ぐらいに思ってしまうのですよね。あぁ、そもそもそれが良くないって? それはそうかもしれない。でも、それを言われると、アイデンティティ・クライシスに陥ることになるのですよね。苦笑
買いました。半年ぐらい、起動するとしばらく震えが止まらなくて、なかなか通常どおり撮影することができないという症状が続いていたので。人数が多いときに、「はーい、写真撮りましょう~」とかもできないし、風景にしても決定的な瞬間(というほど大げさなものではないのだけど)に咄嗟にシャッターを押すことができないし、いろいろ不便があったので。

先月、1度下見を済ませており、その時には、デジタル一眼レフとまではいかずとも、それなりにコンパクトだけど、マニュアル操作ができる機種にしようと思っていました。その時点で候補に挙がったのは、オリンパスのE-P1であり、リコーのGR DIGITAL IIIであったのだけど、どちらも高額。ざっと11万円と8万円。今日行ってみると、リコーがGXシリーズという比較的廉価だけどマニュアル操作ができるものを出しており、さらにニコンが同クラスのカメラを販売していることが判明。ざっと5万円弱。ニコンにしようかなーと思ったものの、在庫がない上、発売が昨年夏で既にメーカーにおいてすら欠品なので、入荷はいつになるかわからないとのこと。ザ・カメラメーカーだし、というのもあって既にニコンで盛り上がっていたので、ちょっとリコーが霞んで見えてします。それでも、マニュアル操作のカメラを持って、絞りやシャッター速度を自分でいじりながら写真を撮るのは面白いことは明らか…。とはいえ、今までは普通のコンパクトカメラを使っていたわけで、それであれば2~4万円ぐらいでそれなりのものを買えるわけで、ここにきて迷い始める。

結局、お店の人にリコーのGXシリーズの操作を実際にやってもらって、絞りをいじって周りをピンボケさせて写真を撮ってみたりして、ある結論にたどり着きました。人数が多いときに「はーい、写真撮りましょう~」とやったり、風景を見て気に入ったものを瞬間的にパシャパシャ次々に撮ったり、そういうカメラの使い方をする僕にとって、撮影前に絞りやシャッター速度の調整を念入りに行うという作業が、楽しくもあるけど、不便でもあるということ。結局、マニュアル操作の利くカメラを手にしても、せっかちな性格のために、その操作性を活かすことなくカメラを使ってしまうのではないか、ということ。その時点でコンパクトカメラを購入することを決定。

最近一番人気だというオリンパスは約4万円。2位、3位はいわゆるカメラメーカーの製品ではなかったので、ちょっと気が引けて(それまで持っていたカメラにそんな不都合が生じたのも、もともとカメラで勝負するメーカーではなかったせいだと勝手に思い込んでいるため)、却下。その横に、光学ズームの倍率がオリンパスよりも低いものの、他のスペックはだいたい同じで2万4千円というニコンの代物を発見。というわけで、大英断を下して、そのニコンにしてしまいました。COOLPIX S570。

自分としては、当初欲しかったマニュアル操作可能な機種を斬ったことよりも、最後の最後でオリンパスの4万円を斬った決断に拍手。SDカードも買ったけど、ポイントも使って、結局2万円強でお買い上げ。最近、出費が激しいので、だいぶ助かりました。

それはそうと、SDカードの類はすごく進化が進んでいるんですね。2年前に買ったときの記憶では、2GBなんてすごく容量が大きくて、我ながらちょっと大きいのを買ったなぁという感じだったんだけど、最近は最低1GBが当たり前なんですね。しかも、1GBも2GBも大して値段変わらないし。前は普通に256MBとか512MBとかもゴロゴロしていたのになぁ…と時代の変化を感じずにはいられない24歳6か月でした。
2009.10.11 鉄道博物館
に行ってきました。

前から、すごく面白いと聞き及んでいたので。3連休の中日に行くなんて自殺行為かと思ったけど、ほとぼりはある程度冷めたのか、入場制限がかかるほど混雑しているということはなく、楽しむことができました。テレビで映像を見たことはあったけど、実物の列車があれだけたくさん並んでいるのを見るのは壮観ですね。大の大人がこぞって、動くことのない新幹線の座席に座っているのを見るのは、いささかシュールではありましたが(と言いつつ、自分もそのうちの一人。)。巨大年表も、非常に細かく、充実していて、見ていて全然飽きませんでした。周りのお客さんよりもかなりゆっくりしたペースで読み進めていたし(それでも全部の項目を読むことはしなかった。)。年表が頭の上にあって、目の前には同時代に活躍した鉄道にまつわるものがたくさん置いてあるのだけど、ボクは明らかに年表の方が面白くて、現代に近づくにつれて、首が痛くなりました。見ながら思ったのは、自分の専攻としていた20世紀前半の日本の盛衰を、鉄道を通して検証するような論文を書くのって面白いだろうなーということ。南満州鉄道株式会社が設立されたり、台湾縦貫鉄道が敷設されたり(想像していたよりもずっと早かった。)、国内の鉄道をすべて広軌にする計画が持ち上がったけど断念したり、戦時中には初めての女性車掌が誕生したり、列車に対する米軍による機銃掃射が起こったり、時代を象徴するような出来事が鉄道史の中にもたくさんちりばめられており、鉄道経営の観点からも、鉄道の拡張史の観点からも、はたまた社会学的な観点からも、面白い題材だと思いました。もっとも、ボクがあの年表を見て咄嗟に考え付いたことだから、既に先行研究は五万とあるのだと思うけど。あとはまぁ、教授が名著を書いた後藤新平が鉄道院総裁を務めていたことがあるという点でも、かなり面白い研究ができそうですね。そんな研究をできる機会には恵まれないと思うけど。フランスは鉄道国家だから、フランスでそういう論文書いてみようかしら。題材は必ずしも日本ではなくて、同じ着想からフランスの鉄道事情から見るフランス史だって良いわけだしね。あーでも、歴史はとにかく読まなければいけない量ばかり多くて、純粋に語学を使ったコミュニケーション能力を高めるという点ではオススメしない、という人は結構いるんだった。悩ましいですね。

話は逸れましたが、鉄道博物館。小物類もそれなりに充実していました。が、ひとつ残念だったのは、秋葉原にあった交通博物館では実際に操作できるようになっていた、昔の新幹線のホームにあった列車案内のパタパタが、単に展示されているだけで、実際に操作することができなかったこと。あれは子供の頃大好きだったし、今も割と興奮してしまうんですけどねぇ。もっと言えば、昔の切符売り場(窓口)で係の人が使っていた機械(本みたいなものに、駅名が一つ一つ書いてあって、それにピンみたいなものを差して、目的地を機械に指示する仕組みになっているようなもの。わかります?、この説明で。)も展示してあったので、それもぜひいじってみたかった。あとは、路線図の変遷とか(時刻表の変遷は、少し前に特別展があった様子。)、鉄道に関する音に係る企画とか(発車ベルのみならず、アナウンス等も含めて。)、あったらいいなぁと。他方で、機関車やディーゼル車、電車が動く仕組みの類の展示はたいへん充実していました。とても教育的な配慮がなされていて良い展示だなと思わせられるものもある一方で、ちょっと説明不足なんじゃないの?と思うところもなきにしもあらずでしたが、そこは動力に関する部分だったので、子供にわかるようにちゃんと説明するのが至難の業なのだろうな、と思い、仕方ないかと。お土産屋さんでも、何も買わなかったけど、いろんなグッズが出ていて、楽しかったです。500円玉を入れると、山手線各駅の発車ベルが鳴る貯金箱とか、結構楽しかったから、もっと安かったら本当に買ってしまっていたかも(6,000円弱)。それにしても、音に関するグッズ自体はそこまで多くないんだけど、中でもアナウンスとなると、全然ないんですね。それはちょっと残念。ボクは、世に言う鉄道マニアほど入り込んではいないけど、小さい頃から普通の男の子並みに電車は好きで、でも多くの電車好きがその車体や動力に興味を示すのに対し、路線図とか時刻表とか行先表示とか発車ベルとかアナウンスとか、そういうソフトな方に興味を持つ子供だったので、かなり少数派なんでしょうね。
見ました。

決して悪くはなかったけど、本年度アカデミー賞最多8部門受賞!とかいう前評判ばかりが先行して、かなり期待値を上げて見てしまったせいか、決して悪くないけどそこまでいいか?という印象は受けました。繰り返しになりますが、これはあくまでも当初の期待値を勝手に高めていたせいなので、映画そのものにはいかなる罪もないと思います。

quasi現在と過去を行ったり来たりしながらシナリオを進めるという古典的な方法を、quasi現在にも一定の物語が描かれるように設定したこと、また、quasi現在において話がちょっと進むごとにそれに1対1対応する過去のエピソードを流すという緻密な構造で表現したこと、などは一見目新しく見えるものの、古典的な(つまり、やり尽くされた)方法をとっていることには変わりない。それに、quasi現在にも一定の物語が描かれるように設定したとはいえ、過去との間を行ったり来たりする間にquasi現在で起こることは、基本的には取調べのやりとりだけで映画の筋には影響しないし、取調べのやりとりである以上、場面の変化には乏しいし、一見目新しいようでそうでもないように思う。さらに言えば、quasi現在に1対1対応の過去のエピソードを流すという構造も、要するに映画全体がショートショートの寄せ集めにしてしまっている感じが否めない。もちろん登場人物は共通しているから、まったく別の話というわけではないのだけど、サザエさんが同じ登場人物でまったく違う話を1日に3本放送するあの感じ。群像劇というスタイルを採る場合でも、そうではなく、全体として話が前に進むようにするものだと思うんだけど、どうしてああいうぶつ切りの撮り方にしたんだろう。。。主人公を幼少期のエピソードから描くので、ある程度ぶつ切りにしないと時間が間延びするばかり、という配慮もあったのかもしれないけど、それにしても、もうちょっとスムーズにつなぐこともできたのではなかったか。まぁこれはもう好みの世界ですがね。

あとは、キャラクター設定ですかね。たとえば主人公の兄。主人公の運命をなんだかんだ最後まで翻弄する準主役級の役どころでありながら、最後までキャラ立ちしきれない、という感じ。こういうキャラに描こうとするものを感じることはできるんだけど、なんでそこでそのキャラが揺らぐようなことをさせるわけ?と上映中に何度も思った。ボクが単純な見方しか出来ていないということかもしれないけれども。というか、フィクションなんだから、そこらへんは融通を利かせたら良かったのではないか、と、ただそれだけです。

他方、考えさせられることは多かったです。インドにおける宗教的対立の実態とか、ボクはよくわかっていないから、かつ、宗教的対立というと中東、旧ユーゴ、アイルランド、一部のアフリカなどが浮かぶばかりで、宗教的対立の文脈でインドを思い出すことがなかったから(インドとパキスタン、バングラデシュがずいぶん前から別々の国家であるということも関係する気がするけど。)。あとは、これも日頃当たり前だと思っている日本におけるガバナンス(この映画の場合、主に警察権の行使)が、途上国一般においてならいざ知らず、巨大新興国ともてはやされるインドにおいてすら確保されていないこととか、わかりそうなことだけど感覚としては染み付いていない(日本における当たり前が、インドにも適用されるものと思ってしまう節がどこかにある。)気がする。警官にボコボコにされながら、アメリカ人観光客に対して「It's a real India.」という主人公に対して、アメリカ人観光客が「I will show you power of a real America.」と言って大金を振る舞うシーンなんて、ベタだけど、笑ってしまいました。

消化不良を起こしているわけではないのだけど、何かが物足りないのかなぁ…単にヨーロッパ映画との違いの問題の気もするけれども。いずれにせよ、決して悪くはない映画です。でも、それ以上の評価はちょっと避けたい感じ。
2009.10.09 mugimaru2
今日は、カフェの紹介。

http://www.mugimaru2.com/

神楽坂にある「mugimaru2」。飯田橋駅からだと歩いて5分ぐらい。神楽坂通りを上って、大久保通りの手前の狭い路地に面しています。雑誌で見つけて、そのうち行ってみよう行ってみようと思っていて、ずっと放置してしまっていたお店。

なんといっても特徴は、1個140円の蒸し饅頭。白地、よもぎ地、黒蜜地、紅茶地など生地も複数種類あるし、あん、あん&チーズ、ジンジャー、さつまいもなど生地によって中身もいくつかあります。お店で女主人が蒸しているので、時間帯と種類によっては蒸したてを食べられるかも。コーヒーやお茶も、それに合わせてブレンドされているという代物で、見るところ、蒸し饅頭は注文せずに、普通のカフェの感覚で飲み物だけを注文している人も結構います。ちなみに、蒸し饅頭、飲み物とも、厨房の窓をウィンドウにして(どうなんだろう、この日本語。)、外から注文してテイクアウトすることもできるみたいです。

インテリアも、素敵です。どこで仕入れたのか、古いインテリアをふんだんに使い、しかもそれを古さがわかるまま、あえて雑然と並べることで、誰かの家に来たみたいな感覚にさせてもらえる感じ。1階がソファや普通の椅子の置いてあるテーブルと思いきや、2階は大きめの掘りごたつとちゃぶ台。掘りごたつは4辺に2人ずつ座って、最大8人座れる構造で、2人組のお客さんがよく相席をしています。全然気にならない様子。

最近、買い物とかのついでに新宿とかでお茶しようとすると、土日の午後なんてどこも絶対待たずには入れない感じになっていて、イライラすることが多いのですが、ここはいわゆる中心街からはちょっと外れていることもあり、全然座れないということはなさそう。店内がいっぱいでも、天気さえ良ければ、路地にテーブルと椅子を出してくれるみたいだし。というわけで、もしかしたら、よく通うようになるかもしれません。神楽坂に用があることって少ないから、完全にオフの休日に、ギンレイホールで映画を見るついでに、という状況でないと行けなそうだけど。昼を軽めにして、蒸し饅頭を頂くのは幸せなのですよ。
台風上陸。久しぶりですね。JRが止まりすぎだとか報道では騒がれていましたが、「1年に1回あるかないかの頻度で台風が直撃し、そのときにはJRの脆弱性を露呈させる。」というのは、もはや織り込み済みなのではなかろうか、とすら思いますね。だって、1年に1回ぐらい同じ騒ぎが起こるのに、とことん進歩がないんだもの。だいたいどの橋が危なくて運転を見合わせざるを得ないのかは毎回決まっていて明らかなのだから、対策なんて講じようと思えば講じられるはず。

とまぁ、別に今日の本題はそれじゃなくて。今日は台風が上陸することがわかっていたので、かつ、昼休みはお昼当番(仕事があろうとなかろうと課内に残り、ゴハンを食べに出ている人の代わりに電話を受ける当番)だったので、お昼ご飯を買いに出るのも嫌だからお弁当を持っていこうと思った、かつ、天気がひどくならないうちに出勤してしまおうと思ったわけで、早起きして弁当を作り、いつもよりも早めに出勤しました。家を出ると、なんと、雨すら降っていない。職場の最寄り駅から職場まで歩く間、といってもものの30秒ぐらいなのだが、ちょっと雨が降っていたけど、でも横殴りなんてことはなく、身体はまったく濡れず。

出勤してからしばらくすると、窓をたたきつけるような暴風雨。こりゃぁ定時に出勤する人は大変だろう、こういう日に計画的に早起きをして、風雨を避けて出勤する自分は勝ち組だと思い、同じ意図で早く出勤していた同期の女の子(先日の『超ない!』の子)とも自分たちは勝ち組だよねーと語り合い、悦に浸っていたところだった。ところが、定時になる前に窓をたたきつける風雨は止み、むしろ空は明るくなってきた。雨は降っているものの、空は晴れているし、そもそも暴風域に入っているはずなのに風は大して強くない。結果、定時に出勤した人も、電車の運転見合わせに巻き込まれた人を除いては、割と通常に近い形で出勤できたようで、テンションガン下がり。せっかく早起きして、それがまさに正解だったと思い込んで、喜んでいたのに。面白くない。

それに関連して。台風だからと思って、普通の布製の傘が風で壊れても嫌だと思い、かつ、台風みたいな時はどんな立派な傘を差しても濡れるときは濡れるのだと思い、今日はあえてビニール傘で出勤したのだが、そういう判断をしたことについて「女の子っぽい。」と言われた。何が女の子っぽいのかと尋ねると、そういうどうでも良いことばかりくどくど考える頭を持っているところ、という答えが返ってきた。まず女の子に失礼なのではないかと思うと同時に、そういう細かなことまで考えの及ぶ女の子ばかりではないと思った。むしろ、そういう女の子ばかりだとしたら、日本人男性はハッピーだと思うのだけど。やっぱり、ずぼらなのはいけませんよね。別に台風のときに布製の傘を差すことをもってずぼらであるというつもりは毛頭ありませんけど。でもねぇ、その布製の傘が1万円ぐらいする超お気に入りの傘だったりしたら、どんなに頭が回らない人でも、ビニール傘を差すに決まっているよねぇ。そうでもないのかしら。
2009.10.07 山田太郎御中
幹事をやることが多い。一般論としてもそうだけど、それはまぁ置いておいて、予定されている大きな宴会のうち、幹事を務めるものが年内に3回。そのうちの1つは、葉書で出欠を募っており、ちょうど締め切りが過ぎたところである。今日、1枚の葉書が届く。締め切りは1週間前だと言っているのに、どこのアホだ、こんなタイミングで送ってくるのは(想定の範囲内なので別に困ったことはないけど。)、と思いながらよくよく見ると、宛名欄の「●△◆□(ボクの本名)行」の「行」が丁寧に消され、なんと横には「御中」と書いてある。これにはガックリ。「●△◆□」はどこぞの会社か、と。初めて見ました、こんな人。ボクよりも少なくとも7歳は年上だから、もう30歳は過ぎているはずですが、こんなに恥ずかしい人がいるのですね。人からそう思われないようなオトナを目指したいものです。

そもそも、「御中」の「御」という字は、当該「御」という字の後に続く言葉を丁寧にするために敬意を示す働きをする語であるのだから、「御中」は相手にあたる何かの「中」という意味なのだというのは、考えなくてもわかりそうなものである。その人はボクの中の何に出欠の葉書を出してくれたのだろうか。脳のうち、幹事の労を担当する部分? そんなアホな。個人の名前の後に「御中」と付すなんて、そう考えただけでもナンセンスだということはわかるじゃないか。今のボクだって、こういう自分の主張は何か間違っているのかもしれないと思った上で、マナー辞典的なものを引いてこう言っているんじゃない。だって、そんなことするまでもなく、ここに書いたことが正しいということは確信しているし。

「御中」は例外的に低レベルだとしても、敬称の誤りは散見される。「様」の方が本来「殿」よりも格上だというのはよく知られていることだけれど、「各位」が敬称であるということを理解している人は意外と少ない。すると何が起こるかというと、「●●課各位殿」なんていう不恰好な日本語がお目見えすることになる。「●△◆□様殿」と書いているようなものじゃないか。そんなもの、判断がつかないのなら、「●●課の皆様」と書けば良いのだから、いかなる疑いもなく、「各位殿」を当然のように使っているということがわかる。残念。この原因は、そもそも「殿」が多用される傾向にあるからだと思う。「様」ほど格式ばっていないと整理される言葉なので、使い勝手が良いというのはわかるけど、「●●課長殿」という言い方は、もはやスタンダードになったかと思われるほど広く流通している。本来、「課長」は一つの敬称なのだから、その後に「殿」を付す必要はなく、むしろ「殿」を付すことによって「●△◆□様殿」と同じことが起こっているのだけど、どうしてあまり理解されないのだろう。たとえば電話応対なんかでは、相手に自分の課長についてへりくだって言及するときに、「●●課長」というのは敬称を付していることになるから正しくなく、どうしても単なる呼び捨てが憚られるようであれば「課長の●●」と言うというのは王道で、それは実際に実践している人が多いと思うのだが、それがテキストになった途端に、どうして「課長」が敬称であるという理解が消えうせ、「●●課長殿」と書くんだろう。あれは不思議。むしろ、それが広く流通していると、単に「●●課長」と書くほうが、丁寧さを欠いているように見られるのかもしれないと思い、不愉快ですらあります。敬語についてモノ申したいことはまだまだあるが、今日はとりあえず敬称シリーズということでここで打ち止め。
台風が来るらしいですね。幼いときから、台風が来るというと、なんとなくワクワクします。風雨のためにビショビショになるのは嫌だけど、家の中から暴風が吹き荒れる屋外を見るのはなんとなく好きでした。なんでだかわからないけど。それは今も変わらないかも。あー台風来るんだーどんなことになるんだろー、と純粋に思ってしまいます。不謹慎なのは重々承知の上で言っているのですが。

で、台風。中学・高校は「暴風警報」が午前6時の時点で発令されていると、休校の措置が採られました。もちろん、公共交通機関が動かないからというのもありますが、基本的には危ないから。だって、どこから何が飛んできて、頭に直撃して死ぬかわからないしね。でも、公共交通機関が動かないことによる不便とか、何かが飛んできて死ぬかもしれない危険性って、中高生だからより高いということはなく、社会人だって同じだと思うのですよ。台風が来たら、職場も休みになればいいのに。あらゆる商取引も中止、公的な会議も中止、今日はみんな家でじっとしていましょう、みたいな(その場合、暴風警報を発令する気象庁の人たちと、発令された暴風警報について周知する報道機関の人は、いずれにせよ休めないわけだけど。公共交通機関だって、どうせ止まるんだからストライキみたいに休んでしまえばよい。)。

そもそも、社会人が一斉に休めるのが年末年始とGWぐらいしかないというのがおかしいと思う。そもそも、年末年始とGWが制度的に確立している時点で、一部の例外があるとはいえ社会全体がお休み状態になったとしても1週間程度であれば支障がないことは証明されている。にもかかわらず、一般的な休みと認識されている「お盆休み」だとか、一般的に危険だから外に出るべきではないと思われている「台風」のときに、一斉に休むことができないということは、何ら説明できない。GWや年末年始に一斉に休むことができるのであれば、少なくとも前もって時期が特定されているお盆だって一斉に休むことができるようにすれば良いし、臨機応変な対応が求められるとはいえ「台風」のときだって休めばよい。何より身の安全のために。

お盆休みについては、お盆のときじゃなくても、みんなそれぞれ夏休みは取得するではないか、との反論もあり得よう。しかるに、各自の夏休み期間中、自分以外の人は通常どおり仕事をしているわけで、その間、物事が進むというのは、休んでいても気が気ではないという側面があることは否定できない。もしかしたら緊急事態が起こって電話が鳴るのではないかと怯えながら休みを過ごす日本人はとてもたくさんいるだろうし、それ以上に、休み明けに出社して休み中に溜まった仕事を見るのを想像して休み中から憂鬱になってしまう人はもっと多いだろう。そんなもの、みんなが一斉に休みを取って、その間は物事が一切進まないということを担保すれば、あっという間に解決されるのに。しかも、12月、4月と来て、8月にもその手の休みがあったら、年間バランス的にもちょうどいいじゃないか。なんでそうしないんだろうなぁ。

以上、台風が来るんだから会社も休みになればいいのに、という戯言から始まった思考回路の整理。
2009.10.06 「超ない!」
同期の女の子(同じ課で働いている。)が口走り、先輩から「超ないはないだろ。」とツッコミを受けた発言。要するに「あり得ない!」の程度を更に強くしたような意味で発言したのだと思うけど、たしかに「超ない」はないですよね。苦笑 でも、どうして「超ない」が許されざる言い回しであるのかというのは少し難しい。「超」というのは副詞であり、日本語において副詞は用言(動詞・形容詞・形容動詞)及び副詞を修飾するために用いられる品詞である。「ない」は、「かろ・かっ・く・い・い・けれ」と活用する以上、形容詞であるはずで、副詞に修飾される資格を持つ単語である。「ない」というのは、つまりゼロということで、ゼロである以上、副詞によって修飾されたところで「ゼロ」が「ゼロ」であることには変わりなく、修飾が意味を成さない(=修飾によってフレーズの意味がまったく変わらない)から、副詞との相性が悪いということなのだろうか(ただし、語尾に否定語が来ることを想定している呼応の副詞(陳述の副詞。例えば「全然」「まったく」など。)は除く。)。とすれば、その意味するところに程度による差が生じ得ないという点において、「ない」というのは極めて特殊な形容詞であるということになる。冷静に考えれば、「ない」という形容詞は有無を表す言葉なので、そこに程度の概念がないのは明らかなのだが、日常生活を送っているとそんなことに気付かせてもらえる機会はなかなかない。その先輩にしろ、ネイティヴの日本語スピーカーとして「超」と「ない」という2つの単語にコロケーションとして違和感を感じただけで、通常ならば形容詞を修飾し得る「超」という副詞が、「ない」という程度の概念を排除する形容詞を修飾するのはおかしい、と思ったわけではないはずである。

他方、冒頭で、ここでいう「ない」は「あり得ない!」の程度を更に強くしたような意味であると説明したが、「あり得ない!」という言い回しも不思議な、というよりは現代的に変化した文脈において使われている単語であるように思う。ボク自身、他人からよく指摘されるほどよく使う言い回しなので、ここで分析を加えること事態とても空虚なのであるが、「あり得ない」は文字どおり捉えれば「あることが不可能である」という意味であり、既に起こってしまったこと(=実際に「あった」こと)に対して「あり得ない」と発言するほど意味のないことはない。なぜなら、「あることが不可能である」と言っておきながら、その対象となる事象は目の前で起こっているのだから。こんな風に、自分の口癖を自分自身で冷静に分析してしまうと、いたたまれない気持ちになりますね。でも、今の部署の仕事の性質上、先輩方のように「日本語ポリス」や「言葉の魔術師」を目指して、日々鍛錬していこうと思います。そのためには、まず、「ら」抜き言葉を改めんとね。
2009.10.05 引き続き
昨日説明申し上げた方法でブログを書き進めてみようと考えるわけですが、「考えたことをそのまま」と言われても、そんなに面白いことを考えて生きているわけではないのです。

●中川昭一元財務相がなくなったなぁ、あんな会見して選挙にまで落ちて、生きた心地がしないんだろうなぁと思ってはいたものの、まさかホントに、しかも自殺じゃないなんて、とか。

●クールビズが終わったなぁ、ネクタイするのだるいなぁ、明日はどのネクタイしよう、そういえば先週「今年は紫が流行りらしい。」と口走った先輩に「紫は大好きな色だから流行は大歓迎。」と啖呵を切ったから、紫をしていこうかなぁ、とか。

●つい昨日、著書「しがみつかない生き方」の中で勝間和代を実名で批判する香山リカってすごいよね、あの人たち同じ場にコメンテーターとしていることありそうなのに、と話していたら、今週のAERAの特集が激突120分対談「勝間和代×香山リカ」であることを中吊りで知り、同じこと考える編集者がいるんだなぁと思った、とか。

●でもそれよりは、最新号のPENがウィーン特集だということの方が気になったから、思わず買ってしまい、雑誌って本以上に読まないまま積み重なっていってしまうなぁと今更ながらに反省した、とか。

●デジカメの調子が悪い(起動時に必ず大きく振動して、何度か振り回して振動を抑えないとブレた写真しか撮れない。)ので、再来週末には旅行に行くし新しいカメラが欲しいなぁと思い、どうせならいい写真が取れるんだからデジ一にしようかなぁ、しかもオリンパスが出したPenのデジタルバージョンは比較的ハンディで使い勝手が良さそうだなぁ、でも高いなぁ(レンズ付きで約12万円)、と思っていたところに、演奏会の会場費の前金を立て替えていたことを思い出さされて、購入に向けて気持ちが一歩進んだ、とか。

なんでも良いのだと言われれば、何も考えなくてもこのくらいは出てくるのですが、じゃぁ一日一本の記事にこのうちのどれかを取り上げるほどそれぞれが面白いかと言われると、自分で言うのもなんだけど面白くないのですよね。これはボクの人生には刺激が足りないということか。でもね、毎日事件だらけの人生だとしたら、それはそれで疲れるしね。というか、事件と呼ぶべきことが起きたら、それはそれで公衆の面前と同義であるブログに書くことは難しいだろうしね。というわけで、ブログ道を模索する日々はしばらく続きそうです。
書けば良いのである、というのは、ブログの達人たる友人から今日受けたアドバイス。ブログへの投稿の間隔が開きがちであることについて(彼女は、そもそもそのことについていちいち言い訳じみたことを書く習慣が、投稿の間隔が開けば開くほど投稿のためのハードルを高くするのであるから、そんなことは書かずにしれっと投稿を再開すれば良い旨述べていた。)、平日は仕事以外に特段のイベントは存在せず、仕事のことを書いたところで、ある出来事に対する感覚が読み手に共有されるわけではない以上、書くべきことはなくなってしまう、とボクが意見を述べたときの反応が、「考えたことをそのまま書けば良いのである。」というものだった。そもそも、読み手に「読んでもらう」ためにブログを書こうという根性そのものが間違っているそうだ。なるほど、と思う反面、でもブログに書く以上その投稿を誰かが読むわけで、逆に他人から読まれることを想定しないのであればブログを書く必要などないわけで(ブログとは別に1年半ぐらい日記をつけている、というのもブログ離れの一因かもしれない。とはいえ、その日記も週末に1週間分まとめて書くということがままあるのだが。)。

また、写真をアップするなどしてヴィジュアルにこだわろうとするのも、その作業の煩雑さのために自分をブログ投稿から遠ざけることになる、との指摘を受けた。その指摘を踏まえて、とにかく文章をつらつら書くスタイルを試しているものの、プレビュー画面を見る限り、たいそう読みにくいんじゃないか、これ。字が小さいせいなのか、主述関係が曖昧であるなど文章がそもそも読みにくいせいなのか、よくわからないけれど。

いずれにせよ、話題がブログに及んで、何かしら書いてみようと思わせてもらったのは、良いことです。文章って書かなければ書かないほど、どんどん力が衰えていくというのはたしかだと思うので。国語が得意だったのは小学6年生の頃(高校時代の現代文は破滅的)、作文が得意だったのは中学3年生から高校生にかけて(小学生時代の読書感想文は破滅的、というか、そもそも読書感想文を書くことを求めることの趣旨に疑問を呈し続けていた。)。最近は、いわゆる作文のような文章を書く力は衰えるばかりだと思う。仕事の文章がそれはそれはよく書けているか、と言われると、そんなこともないけど。それでも、自分の文章のスタイル自体、仕事に関係する文章のスタイルに近づいてしまうのは確かである気がして、それはそれで寂しくもありますね。何かが失われていくようで。
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